- Shigetada_bot
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@akugenta_bot 我らの思惑がどうこう、といった事を越えて義平さまのお姿は尊いものであったと覚えております。血筋とはこういったものか、と。息子、重忠がのちに弟君の頼朝さまへとお仕えした際に感じ取った事もつまりはそういう事であろうと。後になるとわかるものです。
2013-08-17 01:28:44この日、私は三嶋大社で頼朝さま旗揚げに盛長殿と伺い修善寺へ来て飲んだくれてぶっ倒れておったのだが……前日に父上の代参で大蔵館と義賢殿墓所へは参詣した。
大蔵合戦の前日、菅谷館におったので大蔵館と義賢殿の墓参に行ってきた。 http://t.co/3moRKGla2Y
2013-08-19 00:09:30あの妙に爺様のロボはいかがかと思う…。 RT @Shigetada_bot: 菅谷館の址にある史跡博物館での、資料を受け取りもあったのだが閉館後に入ったため、ロボ忠には会えなかったな。そういえば。
2013-08-19 00:13:42ロボ忠についてはこちらで↓
大蔵館の跡にある大蔵神社は周囲に土塁や空堀もけっこう残っている。冬枯れの時期の方が見やすいとは思うが。 http://t.co/uL8L4igRNt
2013-08-19 00:15:59あと、義賢殿の墓入口が、妙にバージョンアップしていた。 正確に言うとこの向かい側の「源氏三代物語」とかいう石碑群が…あとで述べよう。 http://t.co/QD01MEj9rW
2013-08-19 00:18:44義賢殿の廟自体は以前と変わらず。裏の民家側からくる人も多いな、まあ近いから…… 父の代参という事で手を合わせてきた。 http://t.co/j8ruooFhYV
2013-08-19 00:22:50で、向かいがどうなっているかと言うと、ええと。まあこの写真みたいなやつで……源氏三代って言うか木曾殿ですよ。こちらでお生まれになった。ええ、勿論あれです、あれの誘致。 http://t.co/y3YALmJWjj
2013-08-19 00:27:45(ちなみにあの大河の陳情で、名がの富山埼玉県知事の皆さんが陳情書をエネッチケさまにお渡しするニュースで、知事三名がポーズ決めた写真の後ろ側に写り込んでたのが嵐山町長ですな……)
2013-08-19 00:29:49で、その「源氏三代」の敷地どうなってるかと言うと入り口にいきなり木曾殿ご子息、義高殿の墓碑が。 http://t.co/m0r8PPxI8W
2013-08-19 00:32:20その他、唐突の源氏の皆様の石碑群! 源為朝さま、八幡太郎義家さま、間になんでかここら辺の元々の持ち主、大蔵氏。 http://t.co/Ais46hkDzU
2013-08-19 00:35:29更に平氏一族とあり、そこに唐突に斎藤実盛殿、そして父上の畠山荘司重能、そして左のはわかりにくいと思うが私の法名での石碑だな。えーと、これ、ここのお寺の独自につけたやつかもしれんが…… http://t.co/NCzRIoPCkW
2013-08-19 00:38:37これから彫るらしいまだ石板のまま建つているものも多くあり、予定者の名前がビニールテープで貼ってあったw これは私の弟である長野三郎重清だw あと柏原太郎とかもあったので、吾妻鏡ほか資料に出てくる鎌倉関係者全部作る気ではないかと…… http://t.co/H6dtmYCKjK
2013-08-19 00:41:39で、源氏三代石碑群のところでは入り口のデカい石看板に寺号と並び埼玉県知事と嵐山町長の名前と知事の揮毫の旨が書かれていて……あと義高殿の石碑にも出身政治家の名前が入っていたり、かなりカオスな場所になっているかもしれん。
2013-08-19 01:19:02オマケですが、菅谷館にある私、重忠の石像は、震災以来まだ傾いており足元は縛られて背後の樹に括り付けられたままだった事を報告いたします。 管理してる職員の枕元とかに立った方がいいのかなあ。 http://t.co/c3SGDn7XVk
2013-08-19 01:03:24あ、それと菅谷館から駅に戻る途中には、私が祭神となっている菅谷神社もあるので、ぜひお立ち寄りあれ。本殿の規模に比べて妙に長い参道が特徴だw http://t.co/dqzJwqOTWE
2013-08-19 01:27:12ちなみに菅谷神社は、私の勧請した時は日吉大権現であったのだが、諸々事情で、現在の名前と姿になったのだな。もっと広かったしな…… http://t.co/PlQp1CNchB
2013-08-19 01:35:29ということで、大蔵合戦当日の父上と重隆大叔父上の語り、義平さまのKG解説は結構まじめになったw 父は夜襲じゃヒャッハーのつもりでいたようだったが、大叔父上が自省モードになっていて急に申し訳なくなったようだw
それぞれの思惑や、血縁での情を越えてその時代における役割を全うするために起きたこの合戦は、秩父党内部でも消化しきれない思いはあったろうと思われる。
実際、戦後処理において父上は重隆大叔父上の遺児となった能隆の保護者となり、入間郡葛貫の牧と河越の地を与えている。
(ただし秩父氏の通字である重ではなく、父の名の「能」を与えている事で、秩父氏の家督を決定的に奪ったと言う事はあるのかもしれない)
その嫡男となる河越重頼は弟の重経と共に翌年の保元の乱にて秩父氏を代表して参陣している。
その後の平治の乱にて武蔵国司は平知盛さまとなり、義朝さまに近くあった家が遠ざけられる中、河越の勢いが取り戻され総検校職は結局、重頼殿のものとなった。
とはいえ大蔵合戦を境に、秩父党の惣領格は実質的に畠山に移ったと見なされている。
そして、源家では義朝さまの棟梁としての地位を固めた事件であっただろう。
平治の乱で一度沈むとはいえ、後の世から見れば、頼朝さまと言う義朝さまの嫡流が源氏の頭として世を作る、その準備となったとも言えるのかもしれない。