- Shigetada_bot
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その「周辺武士団の対立」については、叔父上と一緒に殺された秩父氏の話をメインに畠山重能が語ってくれているから、↓のまとめを読んでみてくれ。 ちなみに重能は重忠の父だが、三浦義明の娘を娶っていたので俺の母方の伯父にもあたるな。
2013-08-16 23:08:29うちの息子の自動ツイも、今日は空気読んでるな→ RT @重忠 【まとめ】我が父、重能が語った大蔵合戦についてのまとめだ。秩父党の話を中心にけっこう読み応えはあると思うぞ。 http://t.co/EWXPzyzfub
2013-08-16 22:57:07そんで俺は、そもそも河内源氏がなぜ東国に勢力を張るようになっていったかを軽く書いていこうと思う。 あ?そんな古い話より肝心の大蔵合戦の経過について説明しろって?史料がほとんど残ってないから詳細がわかんねえんだよ!850年以上も前の事だし自分でも忘れたわ!
2013-08-16 23:13:22(私も結構忘れた、っていうか当時でも把握しきれない所あったな。そういうのを丁寧にフォローできるやつが生き延びたのかも知れんが…)
2013-08-16 23:22:42また、ややこしいのであまり触れてこなかったがついでに言うと、私のもうひとりの叔父上である秩父(高山)重遠=のちの慈光寺別当の厳耀が以前に多胡郡を本拠としていた事もあり、義賢殿と繋がりもあった。この家が新田と関係を悪くしていた状況もあったりな……
2013-08-16 23:34:22えーっと我ら河内源氏が東国と関係ができたのは、長元元年(1028)に起こった平忠常の乱がきっかけだ。この反乱は3年も続き、桓武平氏嫡流の当主である平直方が追討使に任ぜられたが鎮圧する事ができなかった。彼に代わって討伐を命ぜられたのが、河内源氏の祖である頼信公だ。
2013-08-16 23:24:40頼信公の追討使起用が決まると、忠常は戦わずして降伏した。我がご先祖の武威は凄いだろう…と言いたいが、実は以前に忠常と頼信公の間に主従関係があったためという説もあるな。 乱後、平直方は頼信公の息子に自分の娘を娶らせた。この息子こそが頼義公、そして二人の間に生まれたのが義家公だ。
2013-08-16 23:36:48ちなみに平忠常は京へ護送される途中で病死したが彼の息子は罪に問われず、やがてその子孫が上総氏・千葉氏となった。そして鎌倉北条氏は平直方の子孫ということになってるそうだぞ。本当かどうか知らんけど(笑)。
2013-08-16 23:40:11話を戻すと頼義公は婚姻によって平直方の本拠地とその館、そして東国の郎従たちを受け継ぐことになったと言われている。その本拠地が鎌倉だ。鎌倉と源氏といえば専ら頼朝以降しか語られないが、その1世紀も前から縁があったのだ。鶴岡八幡宮の前身である由比若宮を勧請したのも頼義公だ。
2013-08-16 23:50:29大蔵合戦の大蔵館については、武蔵国と相模国の2説があったのだけど、『小代文書』の「小代行平置文」に武蔵国比企郡小代(現在の埼玉県東松山市)の館から悪源太が出陣したことが書かれている。現在同所にある御霊神社が悪源太館跡であり、悪源太が本来の祭神であるといわれている。
2013-08-16 23:22:39義平さまが討死した後に児玉党遠弘の所領となり、その系統が小代を名乗ったのだったな。RT @ietoki1284 大蔵合戦の大蔵館については、武蔵国と相模国の2説があったのだけど『小代文書』の「小代行平置文」に武蔵国比企郡小代(埼玉県東松山市)の館から悪源太が出陣したことが書かれて
2013-08-16 23:43:15坂東での、当時の関係性で言えば武蔵国の中枢である秩父党を巡る争いが恒常化していたところに、源氏の嫡流になりえる勢力が参加し、その緊張が一気に高まった。そして対抗のため我らが担ぎ上げてしまったのが、まだ十五歳であった義平さまだったとも言えるのだな……
2013-08-17 00:05:34我らは義平さまを大将として、秩父党から私、義平さまの母方である三浦党、そして新田、(藤姓)足利で八月十六日、比企郡大蔵館に討ち入り、源義賢と秩父重隆とその郎党を攻め殺した。
2013-08-17 00:18:37奥州十二年合戦で義家公の名声が上がるも、その死後はKG冬の時代に入る…。で、父上が東国にやってくるわけだな。祖父上が色々やらかしてくれたw上に、おそらく嫡男を外されていたため当時の父上は無官だった。
2013-08-17 00:10:46そんな父上を上総氏や三浦氏が受け入れ協力してくれた理由は、彼らは摂関家領荘園の荘官を務めていた為、その頃既に摂関家に臣従していた祖父上の根回しだったとも見られている。最初から父子の仲が険悪だったわけではない…と俺も思いたい。
2013-08-17 00:19:40そう、保元の乱から遡っての大蔵合戦…源氏の代理戦争と言う見解をよく見かけるのだが、この以前で義朝さまと為義さまの関係が、そこまで悪化していたと言う話は特になかった。これを契機に決裂したのかもしれない。
2013-08-17 00:26:57結局、京でその一年後に起こる保元の乱の前哨戦としての大蔵合戦という見立て自体を否定はできないが、源氏ありきの代理戦争と言ってしまうには少々端折り過ぎではないかなと、我ら坂東の者は思うのだ。
2013-08-17 00:32:26大蔵合戦は一日で終わり、義賢殿、秩父重隆の首級をあげ、秩父党の惣領としての畠山の地位は確かとなり、武蔵国と相模国への源氏同士の争いの火種も消えた……が、その処理には時間と、京における再びの戦火(その中での父子の相剋)など大きく犠牲を払ったように思う。結局、平治の乱にて全て覆るが。
2013-08-17 00:45:15話は前後するが、北関東周辺には既に新羅三郎義光殿の子孫である佐竹・武田や源義国(足利・新田の祖)殿などが進出していたからな。父上の東国下向もこれに倣った面があったのかもしれない。
2013-08-17 00:25:01なんか疲れてきたが、まあKGの動向のみに絞って超簡単に説明してみた。 本来は東国武士団との関係も詳しく解説すべきだけど一口に東国武士といってもなあ、上総氏や三浦党に加えて秩父党や鎌倉党、中村党(土肥実平はここの出身)等々入り乱れていて上手く説明できる自信がない(笑)
2013-08-17 00:47:34さて、重忠が伊豆で酔っぱらっているうちに勝手に浮上させてもらったわけだが、860年ほど前の今日に、武蔵国の比企にてそんな事があった。それが、のちに鎌倉幕府へと続く大きな流れを作ったのかも知れない。それが善い事であったかどうかは私にはわからない。
2013-08-17 00:49:59いちおうあげとけと重忠が行ってた気がするから、大河の時の義賢殿の惨殺三秒前 https://t.co/T2yvk4Q4jj とか。 http://t.co/sH1cyj8O9G
2013-08-17 00:58:44@Shigetada_bot あれから長い年月が経ったのにいまだに記憶してくれているとは感慨深いな。しかし俺が初陣を飾る事ができたのは、盛り立ててくれたお前たちのおかげだと思っている。
2013-08-17 01:22:39