田中耕太郎における自然法概念と日本国憲法
「新憲法の基本的諸原則が、普遍人類的原理によって一貫せられているということである。換言すれば、新憲法は、後に詳述するごとく、自然法の建前に立っている。」田中耕太郎『法哲学』p323「新憲法に於ける普遍人類的原理」
2013-08-13 15:08:47著者の田中耕太郎(1890-1974)に関しては、トミスト、自然法論の立場にある法学者、法実務家であり、カトリックの信徒であったと手短に記すだけでよいであろう。
2013-08-13 15:16:54一、タイムライン上にあってカトリック信徒の間で憲法に関しての議論が見られるが、本来議論すべき共通善の追及つまり自然法論からの議論が見られないため。
2013-08-13 15:20:15三、教導職への従順をはじめ、信仰の諸真理と教会における一致が損なわれる議論がおこなわれており、本件について自然本性からの議論を展開する必要があるため。
2013-08-13 15:23:04四、議論においては自由「意志」と良心が焦点になっているが、本来の焦点は共通善の追及とその認識にあることを主知主義(トミスト)の立場から展開する必要があるため。
2013-08-13 15:24:51五、日本の教会における社会教説を考えるにあたり先哲である田中耕太郎の知見を紹介することは教会に属するものに有益であるため。(むろんそれ以外の人にも)
2013-08-13 15:26:22「世間の新憲法の祖述者や解説者が、或いは看過し、或いはせいぜい一、二言で片づけ、或いは故意に黙殺している一点について、考察を試みようと思う。」ibid.p323
2013-08-13 15:37:47自然法論の立場が日本の法学界、法曹界で大きな位置を占めていない点については法学者である水波朗も同様の指摘をしている。
2013-08-13 15:38:49の日本の社会においては少数説であるが、カトリック教会においてはこの自然法論は多数説である。教会は最近の公文章においてもあらためてこの自然法論の立場を強く擁護している。参照:『普遍的倫理の探求―自然法の新たな展望』
2013-08-13 15:40:47田中は、現行憲法の基本的人権が、米国のバージニア憲法にはじめる西洋思想に立脚していると説明するだけでは局所的であり不十分であると述べる。
2013-08-13 15:45:36田中は、「憲法全体の性格が、根本において、自然法に立脚しているものであることに、立ち入った考察が向けられていない」ibid.p323と指摘する。
2013-08-13 15:46:45明治憲法についても田中はその権利について制限により骨抜きにされていたもののその根本において自然法に立脚していると指摘する。
2013-08-13 15:48:25「基本的人権に関する規定は既に明治憲法中に存在していたのであり、そうしてその思想的起源も亦新憲法のそれと異なることはない。ただ明治憲法の場合においては、人権の保護が法律によって、又は「安寧秩序」や「臣民タル義務」の名目の下に命令によって制限せられ、骨抜きにされていた」323-4
2013-08-13 15:52:44「両者間にこれだけの差はあるにしても、明治憲法の人権に関する規定が自然法的性質のものであることは否定できないのである。」ibid.p324
2013-08-13 15:54:19「新憲法は、一方、人権の完全な保証を企図するにとどまらず、人権の自然法的性格を明瞭にしている。又新憲法は、他方、この自然法的性格が憲法の一局部を支配するにとどまらず、憲法全体の基調になっていることを明瞭にしている。」ibid.p324
2013-08-13 15:58:24一、現行の憲法はその成立の経緯はともかくとしてその根底にある諸原理においてカトリックの公式の見解(社会教説、カテキズム)で主張される自然法論と合致する。
2013-08-13 16:00:55二、ただし自然法論はカトリックの神学的立場から批判する立場もありうる。(主意主義の立場)これらが関わるのは直接的に信仰の諸真理に対してではなく、人間の本性つまり理性と意志、良識と良心をどのように捉えるかという問題であり、この点についての議論が教会の一致を妨げる必要性はない。
2013-08-13 16:02:31三、自然法論の議論が理性と自由意思といった人間に共通の本性に基づく以上、教会外の人たちも議論、対話、また合意の形成と協同が可能である。
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