小坪合戦と衣笠城合戦

こんにちは藤四郎です。 義澄様の思い出話シリーズ第三弾をまとめました!
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畠山重忠 @Shigetada_bot

治承四年八月二十六日 -武蔵の国畠山の次郎重忠、且つは平氏の重恩に報ぜんが為、且つは由比浦の会稽を雪がんが為、三浦の輩を襲わんと欲す。(続)

2013-08-26 10:43:49
畠山重忠 @Shigetada_bot

(承前)仍って当国の党々を相具し来会すべきの由、河越の太郎重頼に触れ遣わす。これ重頼は秩父家に於いて次男の流れたりと雖も、家督を相継ぎ、彼の党等を従うに依って、この儀に及ぶと。江戸の太郎重長同じくこれに與す。(続)

2013-08-26 10:44:02
畠山重忠 @Shigetada_bot

(承前)今日卯の刻、この事三浦に風聞するの間、一族悉く以て当所衣笠城に引き籠もり、各々陣を張る。東の木戸口(大手)は次郎義澄・十郎義連、西の木戸口は和田の太郎義盛・金田の大夫頼次、中の陣は長江の太郎義景・大多和の三郎義久等なり。(続)

2013-08-26 10:44:17
畠山重忠 @Shigetada_bot

(承前)辰の刻に及び、河越の太郎重頼・中山の次郎重實・江戸の太郎重長・金子・村山の輩已下数千騎攻め来たる。義澄等相戦うと雖も、昨(由比の戦い)今両日の合戦に力疲れ矢尽き、半更に臨み城を捨て逃げ去る。(続)

2013-08-26 10:44:29
畠山重忠 @Shigetada_bot

(承前)義明云く、吾源家累代の家人として、幸いその貴種再興の代に逢うなり。盍ぞこれを喜ばざらんや。(略)今老命を武衛に投げ、子孫の勲功に募らんと欲す。汝等急ぎ退去して、彼の存亡を尋ね奉るべし。吾独り城郭に残留し、多軍の勢を模し、重頼に見せしめんと。[吾妻鏡]

2013-08-26 10:44:40
畠山重忠 @Shigetada_bot

衣笠城合戦が本日起こる。これは二十四日の石橋山合戦のおりに発生した、小坪坂合戦での三浦党と秩父党の衝突の始末である。

2013-08-26 10:47:05
畠山重忠 @Shigetada_bot

ちなみに、吾妻鏡で「武衛」とは頼朝さまの事だ。元々、前右兵衛権佐(=佐殿とも呼ばれたな)であり、兵衛佐は唐名で「武衛将軍」だ。なので吾妻鏡では「前武衛」「将軍」「武衛」と記述されて居る。一条能保が右兵衛督に任ぜられてから後は能保も吾妻鏡では「右武衛」と記されている。

2013-08-26 10:56:04
畠山重忠 @Shigetada_bot

あと、頼朝さまは「二品」という記述の時もあるが、これは官位の二位=征夷大将軍の事であったな。そして頼朝さまの死後に尼御台さまも二品と称される。これは建保六年に従三位、同年に二位に除せられた事からだが、この後に出家され二品禅尼、また二位尼などと記述される事がある。

2013-08-26 11:01:13
畠山重忠 @Shigetada_bot

(ちなみに、尼御台さまがこのように高い位についた事はその功労と言う事だけではなく「位打ち」と言う朝廷の迷信のためかもしれぬ。分不相応な者が高位を踏むと凶事が起こるという迷信だが、朝廷からみれば幕府実権を握る邪魔な存在である政子さまを追い落とす凶事を願ったとも、言える。)

2013-08-26 11:07:50
三浦平九郎判官胤義 @bot_miura9

ふう、ちょっと遅くなっちゃったけど、パパだよ。約束通り、どうにか今日中に登場できたね~いや、焦った焦った~。

2013-08-26 23:11:19
三浦平九郎判官胤義 @bot_miura9

昨日に引き続き、思い出話をしにきたよ~。今日は、ほら……衣笠城合戦があった日だ。

2013-08-26 23:14:34
三浦平九郎判官胤義 @bot_miura9

とまぁ、今朝のうちに重忠が吾妻鏡の流れをやってくれたから、おじさんは三浦側の話をもちょっと詳しくお話しちゃうよ~

2013-08-26 23:22:26
三浦平九郎判官胤義 @bot_miura9

@PAIneesan こんばんわ~。待っててくれて有難うね~はい、お土産だよ~ つ【かりんとうまんじゅう】

2013-08-26 23:24:07
三浦平九郎判官胤義 @bot_miura9

秩父党が攻めてくるってんで、皆で集まって相談したんだ。どう守るか、迎撃するか、それとも撤退するか。義盛は迎え撃つ気満々でね、当時の要塞だった怒田城に籠城する事を提案したんだ。でも親父、……大介義明がね、頑として衣笠城で戦うって言ってね……親父、こういう時すごい頑固だったからさ。

2013-08-26 23:28:55
畠山重忠 @Shigetada_bot

まあ吾妻鏡の話もざっくりなんですがな。三浦のお話待機。RT @bot_miura9 とまぁ、今朝のうちに重忠が吾妻鏡の流れをやってくれたから、おじさんは三浦側の話をもちょっと詳しくお話しちゃうよ~

2013-08-26 23:30:48
三浦平九郎判官胤義 @bot_miura9

あ、当時の城の位置関係はこんな感じ。この前平九郎の所の藤四郎が作ってくれたよ。縄文時代の海岸線だからおじさんのいた時代ともちょっと違うけど、だいたい気持ちは伝わるよね。 http://t.co/wMoB100NHI 緑が秩父党が陣取った位置。赤が衣笠城。黄色が怒田城でピンクは佐原

2013-08-26 23:31:47
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やきたぬ☁🍇🍐🌺 @yakitanu

@bot_miura9 怒田城って今の大津あたりっスか?

2013-08-26 23:37:25
三浦平九郎判官胤義 @bot_miura9

久里浜駅の近くの吉井貝塚あたりだよ~。城址は公園になってるよ。 RT @yakitanu: 怒田城って今の大津あたりっスか?

2013-08-26 23:42:23
三浦平九郎判官胤義 @bot_miura9

地図で解るとおり、衣笠城って三浦のど真ん中にあるでしょ? 三浦の城は和田も森戸も全部この衣笠城を守るように作られてるんだ。特に怒田城と佐原城は、大きな湾の入り口で、丁度対岸にあるでしょ? しかも内つ海(東京湾)を挟んだ向こう側は当時敵対者もいた房総半島だ。

2013-08-26 23:37:33
三浦平九郎判官胤義 @bot_miura9

そうそう、久里浜ついでに、地図見られる子は確認して欲しいんだけど、久里浜駅近くに「舟倉」って地名あるでしょ? あそこ、うちの軍舟がズラ~って並んでたんだ。だから船倉。今は大きな川になってるから当時の様子も想像しやすいかも~。

2013-08-26 23:45:41
三浦平九郎判官胤義 @bot_miura9

そんなこんなで怒田城には舟船もあるし、ガッツリ戦闘用の城だった。 義盛は「ぜってぇ、あいつら海慣れしてねぇし、ここなら勝てる!!」って息巻いてたねぇ……。

2013-08-26 23:48:48
三浦平九郎判官胤義 @bot_miura9

でも、多分……親父はこの行き違いに気づいてた。そんであの歳だ。全て覚悟してたんだと思う。だから、自分の死に場所に相応しい場所はどこか。選んだのは「衣笠城」だ。

2013-08-26 23:52:42
三浦平九郎判官胤義 @bot_miura9

当時の城は「城」といっても戦国時代みたいな天守閣がドーンとあるんじゃなくって、館みたいなもんでね。城主が住んでたんだけど、衣笠城は特殊でね、住居用の館じゃなくって、修行用の館だったんだ。修験道・弓馬の稽古、三浦一族の思い出がいっぱい詰まった場所だ。三浦の象徴そのものだ。

2013-08-27 00:00:02
三浦平九郎判官胤義 @bot_miura9

それで「衣笠城」で迎え討ったんだ。でも、連日の疲れが抜けきれなくってね……。みんなも頑張ったんだけど……。

2013-08-27 00:05:12
三浦平九郎判官胤義 @bot_miura9

あ、そうそう、おじさんの奥さんね、実は再婚なんだよ。小さな連れ子がいて、この頃は元服してて、一緒に戦ったんだ。三浦与一親実。当日風邪引いてたんだけど、そうは言ってられないから戦に出たんだ。一人討取ったんだけど、深追いしちゃってね……おじさん、もうダメだって思っちゃったんだ。

2013-08-27 00:11:02
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