アカデミックなものとのつきあいかた(その1)
- contractio
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#wab 1-2については、そもそも「研究職キャリアを目指すコース」に在籍していたかどうかが大きく関わってくるかもしれない。大学に行っていない、社会に出てから学部時代の専攻とは異なる領域に関心を抱いた、などの場合はそもそも「研究職を目指す」というコースが閉ざされている。
2010-10-03 14:19:44#wab つまり、1-2に関しても1-2-a:外発的要因(1つ前のついーと参照)と1-2-b:内発的要因(パート2を参照)に分けることができるのではないだろうか。もちろん、これに関しても1-2-aと1-2-b両者に重複するケースが出ることは書き添えておきたい。
2010-10-03 14:19:52#wab <2、アカデミックな議論に関心を持つときの『持ち方』について>→背景Aでも書いたが、アカデミックな議論にどのような関心の持ち方をするかは自分の「こだわり」が大きく関わるのではないか。
2010-10-03 14:21:45#wab すなわち2-1:「(日常経験で生まれた)問い」について、現存する研究の知見を借り、またその検討を通じて、解き明かしたいと思っているひと。社会学であればジェンダーに関心を持つ場合などに多い。また<問い>がより抽象的であれば、哲学などに惹かれることもあるだろう。
2010-10-03 14:22:52#wab あるいは、2-2:もともと自分自身の「趣味」(仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄)であったものを研究と接続させて考えたい、というひと。私見では美術史・音楽史など、文化研究に関心を持つ場合などに多いように思う。
2010-10-03 14:23:05#wab 2-3:仕事上の関心からアカデミックな議論をを参考にするひともいるだろう。ウェーバーは『職業としての学問』(尾高邦雄訳、岩波文庫)にて「学問が実際生活に積極的寄与するもの」を(1)外界の事物/他人の行為を予測によって把握する(2)物事の考え方、およびそのための用具・訓練
2010-10-03 14:23:55#wab (3)ある目的にとって最適な手段の把握、の3つに分類している。アカデミズムの外で生きていても、場合によっては、いま挙げたような学問の成果物が、日々の労働や生活に有益な知見を投げることもあるかもしれない。
2010-10-03 14:24:46#wab ※2-2と2-3も、完全に切り離されているわけではない。「知的訓練」としてアカデミックな成果物を利用することも、1つの楽しみとなり得る。利用の仕方によっては、立派な「趣味」として成立するだろう。
2010-10-03 14:25:06#wab 冒頭で「プロ」としての研究職を「アカデミックな世界での評価を受ける」ことと定めた。「自分の問いを解きたい」にせよ「趣味」にせよ、アカデミックな世界での評価を期待しなくても、ある程度までは、ひとりでも文献検討などを進めることができる。読書会などを開いてもよいだろう。
2010-10-03 14:25:58#wab それだけでなく、「<研究>として認められる/認められないテーマ」「指導教官が好き/嫌いなテーマ」など、アカデミズムの内部にいるからこそ生じるしがらみを回避できる、というメリットもある。その意味では1-1-bと1-2-bではここに該当する層が大きいのかもしれない。
2010-10-03 14:26:08#wab ただ、反面で「アウトプットの場がない」「やっていても報われない」「プロの研究者に比べて、中途半端で引け目を感じる」など、「職業として研究職を目指していない」がゆえの問題が生じる瞬間もあると思われる。この点についても、おいおい検討していきたい。
2010-10-03 14:26:14#wab 簡単に書いてきましたが、基本的にはわたしが見聞した限りをまとめたものなので、該当しないケースもいろいろとあると思います。検討が不十分だったり、「自分の場合はこうだ」という個所などあれば、教えていただけますと幸いです。
2010-10-03 14:26:22職業として研究職を目指さないひとが、アカデミックな議論に関心を持つときの「持ち方」について、いろいろとコメントをありがとうございました。参考になるのかならんのかわかりませんが、「#wab」でまとめてますのでよろしくお願いします。 @contractio @mskota @HndA
2010-10-03 14:30:41#wab “academic"は形容詞なので、ワークライフバランスのように名詞とは並列に並べられないという恥ずかしい事実に、いまさら気付いてしもた。ワークアカデミズムバランスとでもお茶を濁しておくか…。
2010-10-03 15:36:43@otya_uke @mskota 「研究職を目指してるか否か」の前に、「論文書く気があるか否か」という、重要な分水嶺があると思う。私や @at_akada は「書く気がない・書こうとしていない」例。 @hnda #wab
2010-10-03 15:22:07@otya_uke 研究者「である」と言えることにとって、「継続的に論文を書いていること」は 本質的に重要な規定ではないかと思う。事実として「書いているかどうか」ということもさることながら、 @mskota @hnda @at_akada #wab
2010-10-03 15:25:26@otya_uke 論文を書く人は、日々の情報摂取(含、読書、研究会参加)が、論文執筆へと指向した仕方で整えられている筈である。このことは、大げさではなく、生活のあり方をかなり変えてしまうだろう。 @mskota @hnda #wab
2010-10-03 15:28:36@otya_uke そしてまさにこの点で、私は自分のことを、本質的ないみで 研究者 で_は_な_い とみなしている。 @mskota @hnda @at_akada #wab
2010-10-03 15:30:22ただ、現状では、論文を書かずに研究職を目指すことは想像しがたいですね。趣味で論文を書くのでもなければ両者はほぼイコールかと。@contractio @at_akada @hnda @otya_uke
2010-10-03 15:33:14@mskota それは、私の耳には、研究職を目指している方ならではの大雑把なご意見にきこえます。 @at_akada @hnda @otya_uke #wab
2010-10-03 15:39:34@mskota いや失礼。別言すると: ①「研究職にない研究者がいる」。 ②「論文を書こうとしていない者を、研究者とはみなしにくい」。 どちらも賛成していただけるのではないですか? @at_akada @hnda @otya_uke #wab
2010-10-03 15:48:42