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李厳について

蜀のNO2だが地味な李厳について疑問点など
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yudofu @yudofu4

三国志の「蜀科」の制定は、伊籍伝によると、諸葛亮、法正、劉巴、李厳、伊籍の5人の力によるという。で、伊籍は昭文将軍に昇進したとある。

2012-09-29 23:03:14
yudofu @yudofu4

法正、劉巴、李厳は劉備の漢中王即位後の歴代の尚書令。ということは、蜀科制定は、諸葛亮と伊籍の2人に歴代の尚書令が加わって、成立したものなのだろうか。法正と劉巴はともかく、李厳は劉備の益州攻略後、尚書令就任までは地方太守を続けていた。

2012-09-29 23:09:46
yudofu @yudofu4

勝手に想像すれば、伊籍が「蜀科」の初稿を書いて、諸葛亮がチェックし、その後に歴代の尚書令に見せてOKをもらって、劉備に上げる、という仕事のプロセスが垣間見えるような気がする。

2012-09-29 23:12:08
yudofu @yudofu4

蜀で一番謎なのは、李厳。劉備がなぜあそこまで重用したのかはよくわからない。劉表、劉璋に仕えて、地方官としての実績はあり、軍事にも精通しているのは確かだと思う。が、益州攻略に協力し、漢中攻略の中心だった法正や、名声が高く経済政策にも精通してた劉巴と比べてどうかと言われれば疑問。

2012-09-29 23:18:53
yudofu @yudofu4

で、もう一つ李厳で不思議なのは、失脚後に諸葛亮が息子の李豊にねんごろになだめる書簡を送っていること。第4次北伐で李厳が漢中に向かったあと、江州都督督軍として、後を任されたのは息子の李豊。蜀でほかにこんな例はないのではないか。それだけ、強固な李厳一派みたいのがいたのか。

2012-09-29 23:45:02
yudofu @yudofu4

李厳が親しかったのは誰か。蜀書にはっきり書いてあるのは費観。防衛を任された綿竹でともに降伏した。二十数歳の年齢差があるにもかかわらず、同年輩のようだったという。

2012-11-09 08:47:29
yudofu @yudofu4

諸葛亮のことは大変買っていた。失脚した後、諸葛亮以外では再起用はないだろうと自覚していた。孟達とは、上庸攻めの後方支援をしているっぽい。帰参を呼びかける手紙には片腕になってほしいと。

2012-11-09 08:51:41
yudofu @yudofu4

ちょっと格下とみてるようにも感じる。古参武将の陳到を部下にしているくらいで、成都平定時には将軍号だけの趙雲と違い、郡太守にもなっているから席次も上か。

2012-11-09 08:55:19
yudofu @yudofu4

陳震伝に「故郷の人を寄せ付けない」(陳震も南陽出身)とあるから、陳震だけでなく、他の南陽出身者、黄忠、呂ガイ、王連、宗預、張存とも親しくはなかったのではないか。

2012-11-09 09:05:31
yudofu @yudofu4

自分に次ぐ地位にあった輔匡も寄せ付けないというのだから、李厳をトップとした派閥なんてあったのだろうか。

2012-11-09 09:09:58
yudofu @yudofu4

楊洪は、唯一ぐらい李厳が推薦した人物。劉璋時代から目をつけていたのか、ケン為郡太守時代に功曹に任命。その後、州に推薦したので蜀部従事になった。漢中に出征中の法正の代わりに蜀郡太守を代行した。第1次北伐後の228年に亡くなっている。

2013-01-06 10:36:20
yudofu @yudofu4

若いころから学問が嫌いだったので、政権中枢にはいかなかったのか。ただ、諸葛亮は北伐の間の留守長史を決める時、楊洪に相談している。「あなたの親友の張裔を起用したい」と。だが、楊洪は「張裔は不公平だから、向朗がいい」と反対した。

2013-01-06 10:45:16
yudofu @yudofu4

で、楊洪はその話をわざわざ張裔に告げに行き、張裔からは「丞相はわしを選ぶ。君に邪魔はできん」とキレられる。諸葛亮は楊洪の言を無視して、留府長史に張裔を選んだ。その結果どうなったか。向朗は街亭で大敗した馬ショクの逃亡を手助けするという余計なことをするのであった。

2013-01-06 10:50:23
yudofu @yudofu4

昇進して調子に乗ったのか、諸葛亮が司塩校尉のシン述に目をかけていることにキレて、仇敵の間柄になり、諸葛亮から手紙でたしなめられる。世間はその段階でようやく楊洪と張裔の不仲の原因は張裔にあることを知った。おそらく楊洪没後だろう。キレやすい張裔、あんたは60歳児か!

2013-01-06 10:54:53
yudofu @yudofu4

それにしても諸葛丞相。北伐の時、手元には、将軍として勇猛だが偏狭な魏延、作戦参謀には才気煥発だが独断専行な馬ショク、部隊編成や食料調達に7才幹があるが嫌われ者の楊儀、留守番には回転が速く実務の才のあるが、不公平でキレやすい張裔。辛すぎる・・・・・。

2013-01-06 11:01:09
yudofu @yudofu4

それに比べ、能力もあり、人格もまともな楊洪が抜擢されなかったのはなぜか。たぶんこれ以上もめごとを増やしたくなかったからかも。もしくは楊洪の寿命が長くないと思っていたのかもしれない。

2013-01-06 11:03:04
yudofu @yudofu4

または、李厳が推薦した楊洪をこれ以上引き上げると、政権内部で李厳の影響力が強くなりすぎると嫌ったのか。

2013-01-06 11:13:30
yudofu @yudofu4

ところで、楊洪が辞職してまで諫言すると言ったケン為郡の郡役所移転計画とはどんなものだったのか。ライ降都督や越スイ郡太守が、治安維持のためや逆に治安悪化を理由に在所を移転したことがあった。そう考えると、李厳も同じことを考えていたに違いない。

2013-01-06 11:28:11
yudofu @yudofu4

反対する楊洪を推薦する形で外に出したのだから、移転計画は実施されたに違いない。その後相次いだ馬秦・高勝の反乱や高定の侵入をすべて退けた李厳の才幹は恐るべし、である。劉備没後の黄元の反乱の値踏みをした楊洪だから、軍事には暗くないが、李厳はその上を行った。

2013-01-06 11:33:22
yudofu @yudofu4

馬秦らの反乱や高定の侵入を誘発させるための移転計画だったのかもしれない。

2013-01-06 11:34:54
yudofu @yudofu4

@sweets_street はじめまして。yudofuと申します。いつも拝見しております。袁紹伝はすごい面白かったです。ひとつお尋ねしたいのですが、李厳が蜀で重用されたのはなぜなんでしょうか?確かに才幹のある人物ではありますが・・・。

2013-09-15 20:35:27
お菓子っ子 @sweets_street

@yudofu4 はじめまして。李厳が重用された背景としては、第一に劉璋の下で成都県令(州都市長)や護軍(軍の監督官)を努めた幹部であったこと。第二に諸葛亮に「流れるように部署が動き、仕事が滞りない」と言われるぐらい高い実務能力を持っていたことがあげられると思いますよ

2013-09-15 20:38:29
yudofu @yudofu4

@sweets_street ありがとうございます。軍事と行政に精通し、高い実務能力を持っているのはわかるのですが、諸葛亮に次いで政権NO2にまでになったのが今ひとつピンとこなくて。劉備が抜擢したのか、元々それだけの処遇をせざるをえないような大物だったんでしょうか。

2013-09-15 21:22:05
yudofu @yudofu4

@sweets_street つまり、ほかに候補はいなかったのかな、と。法正と劉巴が早逝したときに、地方の郡太守から尚書令に引っ張り上げられてきたのがなぜ李厳だったのかが気になります。

2013-09-15 21:24:58
お菓子っ子 @sweets_street

@yudofu4 先程述べたように李厳はもともと劉璋陣営の幹部だったので、劉備の下でも幹部になっています。劉備が死んだ頃には李厳より序列が高い幹部はほぼ死んでいて、益州を制圧した時の劉備陣営の最高幹部の中で生き残っていたのは諸葛亮と李厳だけでした

2013-09-15 21:27:51
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コメント

yudofu @yudofu4 2013年9月24日
まとめを更新しました。
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yudofu @yudofu4 2019年7月26日
まとめを更新しました。
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