李厳がなぜ蜀のNo.2だったのか

蜀のNO2で北伐での輸送に失敗したことで知られる李厳について知られている二、三のこと。
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お菓子っ子 @sweets_street

@yudofu4 益州を征服した直後に郡太守と将軍を兼ねたのは関羽・張飛・法正・李厳の四人だけ。李厳は諸葛亮や法正や伊籍や劉巴と一緒に蜀科(蜀の法律)を制定していることからもわかるように、政権中枢に近い最高幹部です。尚書令になる前の肩書の輔漢将軍も高ランクの将軍号ですよ

2013-09-15 21:34:21
yudofu @yudofu4

@sweets_street 李厳は大物なんですね。劉備との間に個人的な逸話があって、どう評価していたのかがわかる法正や劉巴とちがって、李厳への直接的な評がないのがわかりにくい一因かもしれません。劉備死去後の大物エピソードには事欠きませんが。

2013-09-15 21:46:00
お菓子っ子 @sweets_street

@yudofu4 経験したポストや任された仕事などから地位を推測することもできますよ

2013-09-15 21:51:10
yudofu @yudofu4

@sweets_street 丁寧なお返事ありがとうございます。確かに他にいないですね。ifになりますが、たとえば黄権や孟達が蜀に残留していれば、李厳の代わりを務めていたと思いますか?

2013-09-15 21:33:47
お菓子っ子 @sweets_street

@yudofu4 序列が高い李厳がそのまま持ち上がる可能性が高かったんじゃないかと思いますよ。政務経験が豊富な李厳と違って、黄権や孟達は経験が軍務に偏っていますし。能力的にも李厳ではないかと

2013-09-15 21:37:20
yudofu @yudofu4

@sweets_street こんにちは。またひとつお尋ねしたいのですが、よろしいでしょうか。蜀のNO2だった李厳が失脚した政変で、諸葛亮の独裁体制がより強まったと考えていいのでしょうか。李厳の後任たる存在がいなさそうなのでそんなこと思ったんですが。

2013-09-23 17:10:39
お菓子っ子 @sweets_street

@yudofu4 こんばんわ。李厳は開府(幕府を開いて自分の一存でスタッフを雇う権利)や巴州設置(益州から五郡を分割して新しい州を設置して自分が刺史になる)などを要望して権力拡大を図るたびに諸葛亮に断られていました。人望がないから脅威ではないけど、鬱陶しい存在ではあったと思います

2013-09-23 22:21:45
yudofu @yudofu4

@sweets_street 魏延はずっと前線にいているので、李厳のように後を任される存在ではなかったような。李厳失脚後の江州都督って誰だったんでしょうね。

2013-09-23 17:12:51
お菓子っ子 @sweets_street

@yudofu4 李厳の解任後は息子の李豊が江州都督督軍に就任し、父の職務を引き継いでいます。その後、巴西太守李福と交代したようです。李福は後に尚書僕射になり、諸葛亮の遺言を聞いた人です

2013-09-23 22:28:25
yudofu @yudofu4

@sweets_street ありがとうございます。となると、荊州派トップの諸葛亮と益州派トップの李厳(無論、荊州出身ではありますが、元劉璋の家臣という意味で)のような蜀内部の力関係を描く論もあったように記憶していますが、そうではないとお考えでしょうか。

2013-09-23 22:40:04
お菓子っ子 @sweets_street

@yudofu4 そもそも李厳は傲慢で人望に乏しく費観ぐらいしか友人がいなかったし、諸葛亮の丞相府には劉備旧臣の荊州人、劉璋旧臣の荊州人や益州人、劉璋政権を支持しなかった益州人などが万遍なく参加していて、荊州派と益州派の対立構図自体が存在しないと僕は考えています

2013-09-23 22:44:10
yudofu @yudofu4

@sweets_street 息子に父の後任を引き継がせるのは、蜀内部では異例の人事だと思いますが、それだけ李厳の影響力が大きいというか、シンパが多かったのでしょうか。同郷の人とは仲良くなく、引き立てたのは楊洪ぐらいで、仲がいいのは費観くらいしか見当たらないのですが。

2013-09-23 22:44:05
お菓子っ子 @sweets_street

@yudofu4 業務に支障が出ないように、父を補佐して業務を理解していた李豊に臨時に業務を代行させたのではないかと思います。李豊は郡太守で終わったので李厳の地位は引き継いでなかったでしょう

2013-09-23 22:46:51
yudofu @yudofu4

@sweets_street となると、有能で実務に通じていた上、先帝の遺詔を受けたのでそれなりに遇する必要あった李厳を兵糧輸送に失敗したのを機に引退させたと理解するのが自然なんでしょうね。

2013-09-23 23:13:27
yudofu @yudofu4

@sweets_street 李豊から李福に引き継がれて、諸葛亮没後は鄧芝が引き継ぐわけですね。蜀にとって当方の呉方面担当は、面倒くさい重鎮クラスを成都から遠ざけるためのポストなのかも。

2013-09-23 23:17:56
お菓子っ子 @sweets_street

@yudofu4 江州都督は広大な巴地方の軍政を統括する総督なので、軍事・行政に長けた重鎮を配置する必要があったのだと思います

2013-09-23 23:29:27
yudofu @yudofu4

蜀の李厳であるが、劉封と孟達の上庸攻めの時に名前が先主伝に登場する。劉封伝では、南方にあたるシ帰から宜都太守の孟達が北上。房陵を攻撃、太守で諸葛亮の義兄のカイキを斬った。

2019-07-26 00:59:00
yudofu @yudofu4

劉封は孟達に任せることに躊躇した劉備の命で、曹操から奪取したばかりの漢中からべん水を下らせ東進。孟達と合流して上庸を降伏させた。軍は劉封が統括した。

2019-07-26 00:59:00
yudofu @yudofu4

で、当時の官位だが、劉封は副軍中郎将で上庸攻略後に副軍将軍に昇進する。孟達は宜都太守のまま。李厳はケン為太守で、漢中攻略の前年、馬秦・高勝の反乱を鎮圧した功績で輔漢将軍に昇進している。

2019-07-26 00:59:01
yudofu @yudofu4

で、李厳は上庸攻略で何の役割を果たしたかが不明。高位の将軍職にあるので、孟達はおろか、劉備の養子だが、中郎将だった劉封よりも上位にある。南方の郡太守のはずが、漢中にいるのかは謎だ。

2019-07-26 00:59:01
yudofu @yudofu4

馬秦らの反乱鎮圧後、長期戦となっている漢中に援軍として呼び寄せられたのか。で、上庸攻めの際は軍を指揮すれば劉封の上にくるので、北伐の時のように兵站担当なのかもしれない。

2019-07-26 00:59:02
yudofu @yudofu4

今さらだが李厳の年齢を推定してみる。20数歳年下で親しかった費観は37歳で亡くなっている。費観は死亡した時、巴郡太守・江州都督・振威将軍だ。諸葛亮が第1回北伐(227年)に行く際に李厳は永安から江州に移っている。

2019-07-27 00:09:51
yudofu @yudofu4

その時点で費観は亡くなっているとみられるから、その死は振威将軍に任じられた223~227年の間と思われる。となると、李厳は第1回北伐時には60歳前後。諸葛亮より、十数歳年上になる。

2019-07-27 00:09:51
yudofu @yudofu4

とすると、165~170年ぐらいの生まれか。若くして出身の南陽郡の官吏になっているから、黄巾の乱には巻き込まれているかも。20代で荊州牧になった劉表に仕えて、県令などを歴任。曹操の荊州侵攻を機に益州に逃れたのが40歳過ぎ。そこで首都・成都のトップになる。

2019-07-27 00:09:52