李厳がなぜ蜀のNo.2だったのか

蜀のNO2で北伐での輸送に失敗したことで知られる李厳について知られている二、三のこと。
9
yudofu @yudofu4

劉備を迎撃するため、護軍として20代半ばの費観と出撃したのが40代後半。蜀建国後、諸葛亮と一緒に後事を託されたのは50代半ばで、60代半ばで失脚し、70歳手前で死ぬ。

2019-07-27 00:09:53
yudofu @yudofu4

蜀漢の尚書令は法正、劉巴と諸葛亮と同世代の才気走った人物が続いたから、夷陵の敗戦後には有能だが、重厚な李厳を就けたのか。

2019-07-27 00:09:53
yudofu @yudofu4

華陽国志に犍為郡太守時代の李厳の事績が載っていた。劉備の益州平定時には州都である成都県令を務め、護軍として綿竹で諸軍を率いながら、戦わずして劉備に降伏。成都南方の犍為郡太守として赴任した。郡内には大河が流れており、古に造られた漢安橋が掛けられていた。長さ1里半(600メートル)。

2024-01-20 17:07:20
yudofu @yudofu4

毎年夏や秋に洪水で橋が壊れるので住民が困っていた。そこで李厳は橋を封鎖し、3カ所あった渡し口に浮橋を設置。さらに川沿いの山を削って車道を作り、住民に大変歓迎されたという。さらに、郡の役所や寺院を壮麗なものに改修し、益州一の名所になった。

2024-01-20 17:07:21
yudofu @yudofu4

劉備の漢中征討の間に反乱を起こした数万人の賊を郡指揮下の5000人で鎮圧したのはその後の話。あの戦乱の時代に観光振興で称えられるのは珍しい。劉備が漢中王になった年に郡内で、黄龍が現れる瑞祥が報告されているのも抜け目ない。漢代に功績を上げた太守が少ない難治の郡だけに李厳の手腕が光る。

2024-01-20 17:07:23
yudofu @yudofu4

その手腕があってこそ、夷陵での敗戦後の難しい時期にナンバー2の尚書令に起用され、劉備の死後は呉への備えとして永安に駐屯し、巴での大城建設、北伐での物資輸送という困難な業務についたのだろう。各部署が流れるように動き、滞らないと諸葛亮が評したのはお世辞ではない。

2024-01-20 17:07:24
yudofu @yudofu4

性格には難があるが、軍事や土木、行政、兵站、法律の制定などこれだけ何でもできる人物は蜀漢では諸葛亮以外ではいないのでは。劉備に後を託された以外に劉備との個人的なエピソードがなく、諸葛亮のような劉備への強い思いがないから、晩年に仕事に倦み、輸送で失態をおかしたのではないだろうか。

2024-01-20 17:07:24
yudofu @yudofu4

李厳と同じような枠に入れられている才人、孟達は益州ではなく、雍州扶風の生まれ。父は悪名高い中常侍の張譲に家産を傾けるほど賄賂を贈りまくって涼州刺史になった腐敗官僚だった。

2024-01-21 11:34:53
yudofu @yudofu4

孟達の年齢を推定する。飢饉で建安初年(196)に同じ扶風出身の法正と蜀に入った。当時若かったといい21歳だった法正と同年輩として20歳過ぎ。益州入りする劉備を迎えに法正と一緒に初めて出会ったのは35歳ぐらい。軍議校尉の法正と並んで兵二千を率いていたとあるから、孟達も校尉だったのだろう。

2024-01-21 11:34:54
yudofu @yudofu4

蜀平定後は張飛も以前務めていた宜都太守に任命された。当時、郡太守だったのは法正(蜀郡)、張飛(巴西)、李厳(犍為)、糜芳(南郡)、廖立(長沙)、霍峻(梓潼)、費観(巴郡)と功績が明らかか古参ぞろい。校尉クラスから郡太守に昇進したのはいち早く劉備を迎えいれた点が評価されたのだろう。

2024-01-21 16:49:16
yudofu @yudofu4

ただ、宜都太守ということは荊州を総督する関羽の指揮下に入っているということか。

2024-01-21 16:53:19
yudofu @yudofu4

そもそもなぜ孟達は用いられなかったか。見た目は美男で堂々としており、能弁で才覚もあり、あの癖の強い曹丕が初対面で魅了された。劉備が平定するまでの益州は人物の実質を見ず、世間の評判ばかりが優先されていたのだろう。法正や彭ヨウはいずれも讒言にあって重用されなかった。

2024-01-25 23:16:15
yudofu @yudofu4

彭ヨウは人物評価で名高い許靖に、秦フクを推薦するが、採用されなかった。その許靖は巴、広漢、蜀郡の太守を歴任し、重用されながら、成都包囲中に逃げだそうとした。法正たちのよいな実力のある人物より、許靖のような実質の伴わない人物が評価される政権だった。

2024-01-25 23:16:16
yudofu @yudofu4

孟達の場合、中常侍にこびて出世した父の所業が影響したのは想像にかたくない。当時、許靖は中央にいたからその様子を目の当たりにしていただろう。人物評価の大家の意見を、自らの人物眼に自信のない主君は採用したに違いない。

2024-01-25 23:16:17
yudofu @yudofu4

一方、李厳は荊州の劉表の下でも若くして才幹を称賛され、蜀に移った後、成都の令に任じられても有能とうたわれた。癖はあるのに、完璧な立ち回りをみせている。

2024-01-25 23:16:18
yudofu @yudofu4

第4次北伐を巡る李厳の失脚は、つまるところ一種のクーデターの失敗ではなかったか。長雨で遠征軍への物資輸送が遅延したこと自体は諸葛亮と李厳の間で共通認識があった。李厳は前年に江州から2万人を率いて漢中に呼び寄せられており、その際、中都護の官位のまま後方支援を取り仕切っている。

2024-02-05 06:09:15
yudofu @yudofu4

李厳が諸葛亮に軍を撤退するよう求める使者を務めたのは馬忠。当時、参軍を務めている。李厳が中都護のままという説明を付けた意味は、馬忠は丞相参軍の身でありながら、実際には李厳の部下として働いていたということだ。遠征軍と後方のトップの諸葛亮と李厳、事務方責任者はそれぞれ楊儀と馬忠だ。

2024-02-05 06:09:16
yudofu @yudofu4

公正で知られる馬忠が李厳の命で撤退を求める使者に立っていることから、補給困難による撤退自体は致し方ないことだったのだろう。それは諸葛亮も認めているし、丞相府の参軍を李厳の補佐として残しているので連帯責任を免れない。

2024-02-05 06:09:17
yudofu @yudofu4

ただ、李厳はそれを奇貨として諸葛亮を失脚させようと小細工したから弾劾されて自分が引退することになった。

2024-02-05 06:09:17
yudofu @yudofu4

諸葛亮と李厳の間は悪くなかったが、十数歳年上で一緒に劉備から子どもを託されただけに取り扱いには苦慮している。最初の北伐の時には漢中を守らせようとしたが、あれこれ言って断ってきた。あまつさえ巴州刺史にしろと要求してきた。また、魏延を涼州に侵入する前は幕府を開かせろと求めてきた。

2024-02-05 08:39:09
yudofu @yudofu4

代わりに息子の李豊を江州都督を代行させることでなだめた。李厳自身も自らの人望のなさには気づいていたようで、任地では小さな恩恵を施し、幕府を開いて自分の手下を増やそうとした。

2024-02-05 08:55:26
yudofu @yudofu4

ところで、最初の北伐で李厳が断った漢中での後方支援は誰が担ったのか。郡太守、丞相長史を歴任し、人格に難のない向朗が漢中に残ったと思われる。馬謖の逃亡を黙認できたのは、自身が留守を取り仕切る立場にあったからではないか。

2024-02-05 09:22:27
yudofu @yudofu4

李厳が解任された後は呂乂が漢中太守として後方支援を引き継いでいる。その間、初回から遠征軍に随行して兵站を担ったのは一貫して楊儀だった。漢中側が交代する中、楊儀の発言力は強まっていたことだろう。

2024-02-05 09:46:10