ほしおさなえさんの140字小説16
- akigrecque
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帰って来て、ドアを開ける。だれもいないのにほんのり明るく、うしろから照らされていると気づく。月を連れてきてしまったのだ。月が台所で蛇口を照らす。喉が渇いているのか。コップがないので、湯呑みで水を差し出す。ありがとう、と月が言う。窓を開ける。外に飛んでいって、ひんやりと町を照らす。
2013-07-01 17:47:30昼はまぶしすぎるので、夜の植物園に行くことにした。夜の植物は光合成をしない。だからよく伸びるらしい。動物と同じように呼吸だけをして、木も草もなまなましい。草に座ると、植物とつながり合ってしまう気がする。サボテンのつぼみが開く。星を浴びて、花びらがつやめく。一晩だけ、息づいている。
2013-07-03 11:26:57眠っている。瞳の中の深い井戸に潜っていく。身体から抜け出し、夢に溶けていく。そこではなにもかもが透明で輪郭がない。ふるふるしたものに抱かれている。なにもかもがわたしで、なにもかもがわたしじゃない。月の光が落ちて来る。だれかの夢の中で、わたしだったものが睡蓮の蕾のように開いていく。
2013-07-05 19:53:03薄いガラスの器で、ひんやりした水を飲む。水が喉をおり、胸がすうっと冷える。ざわざわする。波打っている。かつてわたしたちはみんな海にいた。海から離れても身体の中の波は消えない。水の粒が身体中に染み通る。ごろんと横たわる。波の音がする。引き潮だ。生まれる前の世界から引っ張られている。
2013-07-09 15:05:09子どもが昼寝している。お腹が膨らんで、しぼんで、受け止めてきたものを身体の中で育てている。大きくなるには力がいる。泣きたくなるほど力がいる。生きるのは綱渡りみたいなもので、だけど、息をするごとに少しずつ大きくなる。なんでもないように大きくなってしまう。夏空に飛行機雲がのびている。
2013-07-11 10:39:20台所の片隅に井戸がある。家族には見えない。でも知ってる。これはむかしうちにあったのと同じやつだ。ほかのだれにも見えなかった。十歳くらいのころ、ひどく濁ったことがあったが、いつのまにか澄んでいた。色が深くなったり水が減るときもある。井戸がここにある限り、この家は大丈夫なんだと思う。
2013-07-12 09:44:40家によく来る甲虫が、今晩は葉っぱをくわえて来た。旅に出ることにしました。神妙な顔で言う。砂漠で星を見るんです。昔からの夢だったから。さびしくなるね、と僕は答えた。でも旅立ちは明るい匂いがする。友だちの証です、と差し出す葉に小さな足型がついている。甲虫が飛び立ち、星のように光った。
2013-07-16 10:12:10引き出しから手紙が出て来た。遠いむかしの出せなかった手紙。どうするか迷っていると廊下から山羊がやってくる。手紙をくわえ、むしゃむしゃ食べる。山羊の目の奥にむかしの風景が浮かび、過ぎ去った思いが閃いている。どこから来たのだろう、この山羊は。首の毛がしなやかで、やさしい山羊だと思う。
2013-07-18 20:39:44壊れたバスに住んでいる。世界がほころびてきた気がして、シャツを洗う。壊れませんように。世界が壊れませんように。どこかに穴を開けないと全部壊れてしまうから。完璧に正しいことなんてない。美しいものなんてない。世界はただあるだけだ。シャツを干す。錆びたバスの上でシャツが風を孕んでいる。
2013-07-23 10:05:27今日、木にのぼったんだ、と娘が言う。声が弾んで、空の匂いがした。子どものころ木にのぼったことを思い出す。あれはジャングルジムとは違うんだ。木の身体に包まれるような、空に押し上げられるような心地になる。空をおみやげにもらった気がした。のびていくんだね。遠く、高く、手で枝をつかんで。
2013-07-24 20:44:11