MEMO 伊豆大島災害調査

番号のついた写真は@pochipressさんの写真です 伊豆大島をテーマにだらだらトーク希望~
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「伊豆大島志考」556-557頁より引用
「新島村(島はジマと濁らない)の称呼の起源につき
故臼井庄次郎翁の手記によれば、
下高洞から集団移住した所は噴灰堆積によって一面に新島のようになっていたから
「にいしま」と称し、のち本村(もとむら)とも呼んだ、とあった。

また、前にも述べたように元町中央部からの出土遺物が、
そこに住む室町時代住民の常用していた器物との説を肯定するならば、
その出土層から推考して、
前記集団移住の直前年代に噴灰の堆積か
或いは「びゃく」による大泥流でもあって、
この地域一帯に驚異的な新地表を現出したことを思わないわけにはいかぬ。」

他にも色々書いてあるが、要点をまとめると以下のようになる。

  • かつて元町の住民は今よりも南の野増村との間に集落を設けていた。
  • 今もある元町薬師堂や火山博物館の西側の海岸、おそらく現在の湯の浜付近らしい。
  • そこに文禄年間に大泥流が襲い、現在の場所に移転した。
  • そこは今回の土石流が襲った場所のすぐ南側である。
  • つまり、今回の被災地で見つかった過去のラハールは
    この文禄年間の元町移転の原因となった大泥流「びゃく」に対応するかもしれない。
    その可能性も視野にいれて調査する必要があろう。
月野うさはかせ Prof.Lièvre @usa_hakase

メモ:「昭和の初期、通称「おなみ時化」といわれた山津波によって、炭焼き一家のほとんどが流され、死亡するという不幸な事件が泉津村にあった。当時は製炭が盛んで、伊東無、込内等の山林が伐採されていて、その方面に降った大雨で流末の松乃平の沢地に住んでいたためであろう。後に、

2013-10-25 21:20:47
月野うさはかせ Prof.Lièvre @usa_hakase

続)類似した水害が発生している。記録によれば、昭和七年第暴風雨、野増村で死者一名のほか全島で149戸が全壊、差木地村沖合で「榊丸」行方不明、岡田灯台下では「雲海丸」座礁とあるから、「おなみ時化」もこの時のことと思われる。」大島町史通史編第3編第4章第二節「台風・水害」より

2013-10-25 21:24:09
月野うさはかせ Prof.Lièvre @usa_hakase

大島町史は2000年3月に刊行されているが、災害関係の記述は実にあっさりしている。近世の風水害・土砂災害に関する記述はない。近代以降もさきほど引用した昭和七年の「おなみ時化」の記述と、その後に狩野川台風以降の被害の概要が書かれているのみ。台風・水害の全記述がわずか1頁ちょい。

2013-10-25 21:28:29
月野うさはかせ Prof.Lièvre @usa_hakase

一方で噴火と地震の記述は比較的多いが90年代の噴火史研究がほとんどフォローされておらず、とても2000年3月に刊行された書物とは思えない。1984年以前の噴火の記録として一色(1984)が全文転載されてるのにはただ呆れるのみ(地質調査所所長の許可を得たとは書かれてるが)。

2013-10-25 21:34:12
月野うさはかせ Prof.Lièvre @usa_hakase

昭和七年の「おなみ時化」の山津波は全島で149戸が全壊とあるから相当な災害であったと思われるが、その記述はさきほど引用した部分が全て。「記録によれば」とあるが「記録」が何かは書かれていない。資料編にもその「記録」は見つからない。通史編の記述は通常は資料編に基づくはずだが。

2013-10-25 21:39:28
月野うさはかせ Prof.Lièvre @usa_hakase

一方、伊豆大島の地誌として有名な「伊豆大島志考」(昭和36年)にも目を通したが、災害関係は噴火史にあたる「御神火」の章しかない。風水害・土砂災害がそもそも取り上げられていない。

2013-10-25 21:44:30
月野うさはかせ Prof.Lièvre @usa_hakase

今回のラハールの下にある古いラハール(テフラ層序から安永の噴火つまり1777年以降の可能性あり)は昭和七年の「おなみ時化」の山津波かもしれないが、まだよくわからない。元町はたびたび大火を受けて史料が消失してきた土地なので、記録が現存しない近世の山津波の可能性もあろう。

2013-10-25 21:55:24
月野うさはかせ Prof.Lièvre @usa_hakase

「伊豆大島志考」554頁より引用。「元町(旧称、新島村及び元村)[伝承]元村は、もと作川の下流海岸で野増寄りの「下高洞(しもたかぶら)」にあった。文禄の昔、びゃくに押されて埋没し、今の仲小路(なはしょうじ)の地に集団移住した。ゆえに、これらの家々には地神ゴサマが祀ってある。」

2013-10-25 22:20:28
月野うさはかせ Prof.Lièvre @usa_hakase

続)「以上は、今は亡き故老はもちろん、現存の男女古老が異口同音に語り伝える口承である。後段「地神を祀る」を附言する者は、むしろ現存する古老に多い。」「前記下高洞は現在でも「しもたかぼら」と称し、海岸(俗称ふずかま)には淡水の大噴流が水面に見られるというから、

2013-10-25 22:28:29
月野うさはかせ Prof.Lièvre @usa_hakase

続)昔は作川とともに重要な水源をなしていたことがうなずかれ、かつ附近は平坦で海岸一帯は広い砂浜だった(文政記録)ので、文禄以前早くから聚落をなしていたと見ることは、民俗学的にも必然性が多い。」

2013-10-25 22:30:29
月野うさはかせ Prof.Lièvre @usa_hakase

もうひとつ「伊豆大島志考」552頁から引用「文禄(1592年頃)集団移住以前の「下高洞」部落の所在地は、字お御堂の薬師如来堂西下方数丁の距離にある海岸である。大正十二年震災の頃までは、下高洞の沿岸「ふずかま」の断崖から石器、土器その他近世のものと思われる器物の破片が沢山出たが、

2013-10-25 22:39:56
月野うさはかせ Prof.Lièvre @usa_hakase

続)前記震災の時崩してしまった。また海岸すれすれの所に淡水の噴き出している横穴がある(沢田岩松氏談その他)。」

2013-10-25 22:41:08
月野うさはかせ Prof.Lièvre @usa_hakase

「伊豆大島志考」556-557頁より引用「新島村(島はジマと濁らない)の称呼の起源につき故臼井庄次郎翁の手記によれば、下高洞から集団移住した所は噴灰堆積によって一面に新島のようになっていたから「にいしま」と称し、のち本村(もとむら)とも呼んだ、とあった。また、

2013-10-25 22:46:48
月野うさはかせ Prof.Lièvre @usa_hakase

続)前にも述べたように元町中央部からの出土遺物が、そこに住む室町時代住民の常用していた器物との説を肯定するならば、その出土層から推考して、前記集団移住の直前年代に噴灰の堆積か或いは「びゃく」による大泥流でもあって、この地域一帯に驚異的な新地表を現出したことを

2013-10-25 22:49:33
月野うさはかせ Prof.Lièvre @usa_hakase

他にも色々書いてあるが、要点をまとめると以下のようになる。かつて元町の住民は今よりも南の野増村との間に集落を設けていた。今もある元町薬師堂や火山博物館の西側の海岸、おそらく現在の湯の浜付近らしい。そこに文禄年間に大泥流が襲い、現在の場所に移転した。

2013-10-25 22:59:43
月野うさはかせ Prof.Lièvre @usa_hakase

そこは今回の土石流が襲った場所のすぐ南側である。つまり、今回の被災地で見つかった過去のラハールはこの文禄年間の元町移転の原因となった大泥流「びゃく」に対応するかもしれない。その可能性も視野にいれて調査する必要があろう。

2013-10-25 23:02:29
月野うさはかせ Prof.Lièvre @usa_hakase

「伊豆大島志考」は20年ほどまえに神田の古本屋で見つけて2万8000円はたいて買った。当時はちょっと損な買い物だったと思った記憶があるが、ようやく役に立った。難解な書物だが、もはや得られない貴重な証言がたくさん収録されている。

2013-10-25 23:08:12
月野うさはかせ Prof.Lièvre @usa_hakase

しかし「伊豆大島志考」にしても「大島町史」にしても、災害史という視点からのまとめが無かったのが残念だ。それがあればもっと関心を呼んで調査研究が進み、住民の認知も高まっていたかもしれない。

2013-10-25 23:30:58
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