聖書たんのつぶやき「天地創造や処女降誕は科学的な事実として信じられなくても、救済史の物語として確信できればよいと思います」への反応
- southmtmonk
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聖書を丁寧に読めば、聖書を書いた人たちも「創造物語」を歴史的な記述として書いているわけではないことがわかる。創世記の1章と2章は別の事柄を書いているけど、編集者はこれを調整して一本化せず、あえて別々の物語として併置している。
2013-11-07 14:56:48互いに矛盾するエピソードをそのまま併置してしまう事例は、創造物語以外にも聖書の中に何度か出てくる。資料が複数あったとき、どちらかに揃えずに両方書いておくというのが、聖書編集者のやり方だったようだ。新約聖書に福音書が4つあるのも似たような話かも。
2013-11-07 14:59:03近代人は聖書の中の矛盾を放置できない性分で、矛盾を合理化するためにさまざまな屁理屈を考え出す。聖書の中のさまざまな矛盾の理由を聖書原理主義者にたずねれば、たちどころに「正しい解釈」を教えてくれるだろう。でもそれは聖書本来の立場とは違うんだよね。
2013-11-07 15:02:42聖書記者は矛盾を気にしなかった。矛盾していても、多様な資料があることを尊重した。これが古代人の価値観だ。でも近代以降の思考的枠組みにいる現代人は、その矛盾が無視できないのだ。同じことが、聖書の記述とそれ以外の世界の間でも生じる。例えば科学とかね。
2013-11-07 15:04:37聖書の記述と科学的知見の矛盾が気になってしょうがない人たちが、両者を合理的に作りだしたのが創造科学だ。でも古代人ならこんなことはしないと思う。
2013-11-07 15:06:01創世記の記者がビッグバン理論を知っていたら、創世記の第3章に「世界はビッグバンで誕生した」と書いていただろう。なぜビッグバンは起きたのか。神がそれをお望みだったから……ぐらいの説明は付くかもしれないけどね。
2013-11-07 15:07:45聖書が古代人の言葉で世界の成り立ちを説明することを「非科学的だ」と否定する人が多いが、現代人だって同じことをしているではないか。我々は「太陽が東から昇る」と言わないだろうか? それは非科学的な物言いだ。本当は地球が西から東に自転しているのだ。
2013-11-07 15:12:36現代社会にも非科学的な迷信は多い。それは聖書の時代とどっこいどっこいだ。例えば安全日だの危険日だのを信じてそれを避妊に利用しようとしている人は、古代人の非科学性を笑えないのだ。
2013-11-07 15:15:02古代社会には不合理な習慣がたくさんあった。人々はそれに縛られて大いに苦しめられていた。しかし学校のPTA活動を手伝ったりすれば、同じぐらい不合理な世界が身近に存在していることを知ることができるはずだ。
2013-11-07 15:19:42世の中にキリスト教ほど面白いものはないと思っている僕から見ると、学校のキリスト教の授業で昼寝続出というのはもったいなすぎる。そんな寝ぼけた授業をやってるぐらいならオレを呼べ! オレサマに2時間ぐらい好きなようにしゃべらせやがれ!!
2013-11-07 15:56:05それは誤謬なのではないか.「確信」とよばれるもの持つ内容が誤っている,というのではない.信仰をそのように描出することが一種の誤謬なのではないか.
2013-11-07 14:50:45確信というのは「ああ,間違いない,これは確かにそうなのだ」と信じることだろう.私には,その「間違いない」という判断は,信仰にとって全く本質的ではないように思える.
2013-11-07 14:56:27「信仰は正当化の必要なくその妥当性が保証される」という類の言説が神学や哲学の文脈でしばしば見られるが,どうもこの手の言説は信仰には関係ないのではないかと思える.信仰をもちつつその信仰の内容(あるいは信仰を保持すること自体)を正当化したいと思っている人間の妄想ではないか.
2013-11-07 15:04:47信仰を持つものが取るべき方針はもっと単純で,ただ単に合理的な保証の必要性を拒否すればいいだけなのだと私は思う.信仰が「何らかの命題を正しいと考えたり」「信条を保持する」ことではないならそもそも全く正当化の必要はないし,それを正当化する営みは信仰の本質を見誤らせることになるはずだ.
2013-11-07 15:10:04……という私の見解も誤謬かもしれない.私はいま信仰をムーア命題/世界像命題に仮託して思考しているが,むしろ「信仰は単なる臆見である」と判断した方が説得性が高い場面も少なくないように思われる.あるいはそのような臆見から信仰を区別するか.
2013-11-07 15:19:52もしかしたら,ウィトゲンシュタインもやはり同じように悩んでいたのではないか.彼の日記の懊悩,信仰心の行きつ戻りつを見るとそのように感じてしまう.
2013-11-07 15:24:35これはあくまでも私の個人的嗜好に過ぎないのだが,「聖書の文言を信条として生活しています」という人間よりも,「神を愛しています」という人間の方が好きだ.
2013-11-07 15:31:44こういうのって「科学的事実として信じなくていい」を突き詰めていくと最終的にイエスが神の子であるという前提も信じないで、「なかなかいいことを言った古代の人間」程度でもいいことになってしまいそうなんだけど。 http://t.co/CihGkKZNoY
2013-11-07 18:49:33んー、信仰者が「文字通り信じなくていいんだよ」という時、こっそり「自分は信じている」前提で、信仰することによって得た安らぎとかそういうものが大事なのだから事実にこだわって入り口で躓いてしまわないでほしいという気持ちが見え隠れするんだよね
2013-11-07 18:54:15ほんとうに天地創造や処女降誕を信じなくていいのか。さらにそれ以外のイエスが死んだ後生き返った事も事実と考えなくていいのか(これはパウロの時代から正統信仰の要だったはず)がきになるところ
2013-11-07 18:55:58結局のところ、イエスにしろゴータマにしろ、その人達はただの人間にすぎない存在で、彼らの残した言葉がすばらしいのだという立場になると、それは単に哲学者として評価することになるのだけど。信者の方はそれでもいいのだろうか
2013-11-07 19:01:02@southmtmonk まとめありがとうございます。問題ありませんがリベラル云々のくだりは適切ではないので削除してください。
2013-11-07 22:23:21天地創造を科学的な史実として教える根本主義、ファンダメンタリズムは近代以降誕生した一部の聖書理解です。必ずしも伝統的な理解ではありません。そしてリベラルな聖書解釈では完全な創作とみなしますが、わたしはそのどちらにも立っていません。 @southmtmonk
2013-11-07 22:24:27