幽斎様の新世界の吉田くん。
幽斎様の幽斎様による幽斎様の従兄弟、
吉田兼見(兼和)様のお話。
~新世界の吉田君~
儂がよく言ってる吉田君=新世界、唯一の神。について、最近ふぉろーしてくれた子らは知らないだろうから、少しお話でもしてみようかと思う。前にした話と重複するのは見逃してほしい(笑) #新世界の吉田君
2013-11-30 09:53:37●吉田 兼見(よしだ かねみ)
1535年8月20日~1610年10月6日
京都・吉田神社の神主。兼見卿記の著者。
吉田家は元々、 古代の祭祀貴族の一つで、卜占(ぼくせん)による吉凶判断を業としていた卜部氏(うらべうじし)の末裔なの。筋金入りの神様にお仕えしてた一族だの。徒然草の作者、吉田兼好殿も、この吉田一族の出。 #新世界の吉田君
2013-11-30 09:55:31吉田一族の繁栄は、儂のひいじいちゃん、吉田兼倶の時代から幕を開ける。 時は1468年、応仁の乱の戦火で吉田神社は焼け落ちた。 しかしピンチはチャンス!この時、吉田兼倶は……動き出した!(ぷろじぇくとX風ナレーション) #新世界の吉田君
2013-11-30 09:56:42●吉田 兼倶(よしだ かねとも)
1435年(永享7年)~1511年(永正8年)
吉田家の開祖。本姓は卜部氏(うらべうじ)。
卜部氏は卜占(ぼくせん)による吉凶判断を業としていた氏族である。
●卜占(ぼくせん)
うらなうこと。占卜。
「卜占」の「卜」は、古代に大陸で亀甲のヒビの入り方から吉凶を判断した事から来ている。
まずは屋敷内にあった「斎場所」を吉田山に移転。この斎場所を「日本最上神祇斎場」と呼び、神武天皇が橿原に都して以来、代々日本中の神を祭ってきた「 神社の総本山」であると宣言した。 #新世界の吉田君 #言ったもん勝ち?
2013-11-30 09:58:58●斎場所(さいじょうじょ)
祭礼行事のため,常設あるいは臨時に設けられる清浄な場所。
参考:吉田神社の斎場所(Wikipedia)
ひいじいちゃんは朝廷の祭祀、「神祇管」っていう最高位の祭官(神祇管領長上)だった。 だからこの移転で、当時の天皇、後土御門天皇から「 日本国中三千余座、天神地祇八百万神」と記した勅額を頂くことができたんじゃ。 #新世界の吉田君
2013-11-30 10:00:36勅額(ちょくがく)っていうのは、皇帝・天皇などの為政者が 国内の寺院に特に与える直筆の書で記された寺社額のこと。 #新世界の吉田君
2013-11-30 10:00:48これにより吉田家は、自らの神道を 「元本宗源神道」と呼び、吉田家が天地開闢以来、国常立尊(くにとこたちのみこと )から天照大神、天児屋命(あめのこやねのみこと )へと脈々と受け継がれてきた一族で、最高の血筋であるという天皇自らのお墨付きをもらったことになった。 #新世界の吉田君
2013-11-30 10:02:51●元本宗源神道(げんぽんそうげんしんとう)
吉田神道、唯一神道、卜部神道とも呼ばれる。
ちなみに神道は「かんながらのみち」とも読み、日本の宗教のことである。山や川などの自然や自然現象を敬い、それらに神を見いだす多神教。「八百万の神」という言葉もこの神道における神観念である。
さらにひいじいちゃんの野望……違った、民衆を救いたいという気持ちは止まらない。応仁の乱での大混乱の中、伊勢神宮の外宮が放火されて御神体が行方不明になるという事件があり、 #新世界の吉田君
2013-11-30 10:05:48すると、ひいじいちゃんはすかさず「雷鳴とともに天から斎場に落ちてきた」器物を天皇にお見せし、それが伊勢 神宮の御神体であるという見解をもらってしまうんじゃ。伊勢神宮の外宮の神様が吉田神社に逃げてきた、と言うての。 #新世界の吉田君 #言ったもん勝ち?
2013-11-30 10:06:46もちろん伊勢神宮は大ブーイング。何度も朝廷に猛抗議したが叶わず、吉田神道は伊勢神宮に「怨敵」 と呼ばれることになった。 #新世界の吉田君
2013-11-30 10:07:31しかし、これも応仁の乱で荒廃する世の中を嘆き悲しみ、救いを求める民の為!ひいじいちゃんの力業は炸裂した。 さすがにこれは正式には認められなんだが、此処が全国の神様がおわす聖地である!というひいじいちゃんの主張は受け入れられ、 #新世界の吉田君
2013-11-30 10:07:57○参考メモ
伊勢神宮(いせじんぐう)・・・三重県
正式名称は地名の付かない「神宮」(じんぐう)。
1463年(寛正3年)12月27日、第40回内宮式年遷宮。
こののち戦国時代で式年遷宮が中断。
再開したのは1563年で第40回外宮式年遷宮、
次の1585年の式年遷宮で内宮・外宮ともに同回数の式年遷宮41回となる。
そんなひいじいちゃんには、めっちゃ頭のよい息子がいた。 本当に頭が良かったんで、その子は清少納言の末裔である名門、清原家に養子に行ったの。 #新世界の吉田君
2013-11-30 10:09:02超可愛い娘はやがて幕臣、三淵家に嫁ぎ、そして誕生したのが三淵萬吉、後の細川藤孝。つまり儂だ!!長かった! #新世界の吉田君
2013-11-30 10:11:36●清原 宣賢(きよはら の のぶかた)
1475年~1550年
吉田兼倶の三男。
この清原宣賢の次男・吉田兼右(よしだかねみぎ)が吉田兼見の父。
娘の智慶院(ちけんいん)が細川幽斎の母。
(なお、この智慶院は足利義晴の元・後妻であり、寵愛を受けた女性であったため細川幽斎には義晴の御落胤ではないかという説がある)