DJネグリジェによる浜松クラブサーガその1
K-MIXでやったクワイエットストームでは、この曲をかけたのをよく覚えている。奇跡の甘茶ラップ、Two Kings In A Cipher 「You Know How Yo Make Me」。 http://www.youtube.com/watch?v=pYVf-CRZhkk
2010-10-17 12:08:29LIQUORさんに話が戻るけど、当時KCではWBLSだけでなくKISS-FMでトニー・ハンフリーがやってたミックスショーのテープがかかってる時もあって、それを聴きながらLIQUORさんからハウスについてあれこれ指南してもらった記憶がある。
2010-10-17 12:20:27トニー・ハンフリーはニュージャージーにあった伝説のクラブ「ザンジバー」のDJとしても有名ですが、ガラージ目線的には、彼がトッド・エドワーズの同郷の先輩にあたることを押さえておきたい。UKガラージ耳を養うには、ひと通りくらいUSガラージを試食することも大切ですよ。
2010-10-17 12:39:47FMハロー!『ウィークエンド・スーパーフライ』の1コーナーだった「やるせなソウル」は、その後同局の祝日特番になったことがあって、そこで俺は初MCに挑戦した。ゲストには松井さんと街中で「ソウルトリップ」というバーを経営する戸田さんの二大ソウルマスターに登場してもらった。
2010-10-17 12:57:55そこから5年ほど間があって、俺はずっとお世話になってるFMハロー!のMディレクターからのご指名で99年から『ピクニック・ジャム』という番組を担当するわけですが、前にも書いた通り当時は俺史上最も白い時代なんで、俺をコテコテのソウル基地外だと思ってたM氏もビックリしたんじゃないか。
2010-10-17 13:09:20でもスイング・アウト・シスターいいよねぇ?w番組のテーマにした「ユー・オン・マイ・マインド」もいいけど、1stの「トワイライト・ワールド」や「サレンダー」とかたまんない。このへんも当時の藤原ヒロシっぽいチョイス。
2010-10-17 13:13:24SOSのほかには、セイント・エティエンヌ「スプリング」とかね。99年って、ガーリー文化最後の尻尾くらいに当たる年だったのかもしれない。ソフィア・コッポラの『ヴァージン・スーサイズ』が作られたのもこの年だね。
2010-10-17 13:20:45ほかに、俺の「白の時代」を代表する曲といったらコレだな。パット・メセニー・グループ「ストレイト・オン・レッド」。メセニーはもともと松井さんネタだけど、これだけはウチの嫁! http://www.youtube.com/watch?v=fnOEpZ4Jc5U
2010-10-17 13:26:02ぽつぽつリプライいただいて嬉しいです。リプライ返しは後ほどまとめて。さて、そろそろ本編に近づいて来ましたよ。こっから、いよいよクラブ「プラネット・カフェ」時代に突入!
2010-10-17 13:43:4099年春、俺がFMハロー!で『ピクニック・ジャム』を始めた頃、東京からDJのRYOTAが浜松に戻ってた。RYOTAも晩年の「シティカフェ」を知るDJの一人で、その頃LIQUORさんとクルーを組んでいた関係で俺とも知り合った。
2010-10-17 15:02:29RYOTAとはその後、よくレコ情報とかを交換し合うようになって、一緒に名古屋クワトロまでマーク・スチュワートのライヴを見に行ったりもした。
2010-10-17 15:15:28RYOTAは95年の暮れにクラブ「プラネット・カフェ」がオープンした時からのDJで、俺がプラネットに遊びに行く時は、大体彼かATOMさんがプレイしていたような記憶がある。
2010-10-17 15:19:35ATOMさんは浜松のクラブシーンでは知らない人がいない大御所DJ。俺なんか足下にも及ばない大先輩。田町中央通りにある「ハイ・タイムス・レコード」の店主でもあります。短いけどそれで説明十分ですよね?もちろんいまでも現役でプレイ中。
2010-10-17 15:30:21で、RYOTAは90年代の終わり頃に上京してDJやったり、でもきっと主にはぶらぶらしながら何年か過ごした後w再び浜松に戻ってプラネットの店長をすることになった。それで、俺にも何かプラネットでイヴェントやんないかと声をかけてくれたんです。
2010-10-17 15:37:3490年代中頃、浜松ではプラネットのほかにも「ハンボルト」「チョイス!」といったクラブがオープンして、「トレンチタウン・カフェ」もあったから、そういう意味じゃ最初のクラブバブル期だったかもしれない。実際、プラネットもオープン当初は週末300人とか入ってたんじゃ。
2010-10-17 15:47:51プラネットがオープンした当初、遊びに行くたびに俺もここでプレイしたいなぁと思ったんだけど、その頃の俺のイメージはきっとソウルバラードかPファンクしかプレイしないエロ阿呆DJだったろうし、案の定どこからも声がかかりませんでした。だからRYOTAに誘ってもらった時は本当に嬉しかった。
2010-10-17 15:59:46プラネットでのDJデビューは99年の初夏、6月だったか7月だったか。月曜にやってた「アンダードラマ」というジャズ系のイヴェントで1時間くらいプレイさせてもらった。でもなんでジャズ?さっきのメセニーの曲は、RYOTAとも「いい!」って意気投合した覚えがあるから、それでだろうか。
2010-10-17 16:08:23その次はATOMさんが新しく始めるソウル/R&B系のパーティー「HOT WAX」に参加させてもらうことになった。大出世wその頃のプラネットはハウス、テクノ系のパーティー全盛で、そっち系のはほとんどなかった。でもやるんだよ!的なことをその時ATOMさんが熱弁してたのは実話です。
2010-10-17 16:20:49プラネットでやるようになってから、俺はすぐにマイメ〜ンのイサオに声をかけた。あと、何を血迷ったかOSUGEEEにも。まだまだ人材難の時代だったんですねwその2人と一緒に平日のパーティーとして立ち上げたのが「tabou」。後の「タブー」のオリメンにイサオがいたのはトリビアだぜ。
2010-10-17 16:45:27「HOT WAX」は最初だけATOMさんとRYOTAと俺でやって、2回目からRTOYAに代わってイサオが入った。適正人事ですね。こっちは毎月1回金曜の開催。KCやメスカリン時代のお客さんが付いてきやすいジャンルだったし、徐々にお客さんは増えていった。俺のモテキの幕開け♡
2010-10-17 16:45:49一方の「tabou」は、平日のパーティーだからラウンジノリでやりたいという考えがあった。OSUGEEEと2人では心もとないので、いまもやってる「DJ道場」で新メンをスカウトすることにした。念のため断っておきますが俺のOSUGEEEいぢりは一種のお約束として受け流してください。
2010-10-17 17:04:02DJ道場で最初に耳にとまったのがSHIMAKAGEのプレイ。いまや浜松で最も忙しいDJの彼ですが、当時からいまに通じる、沖野兄弟やジャイルズあたりが好みそうな渋めのお皿を回してました。誘ったら特に彼も嫌がらなかったのでw即決で一人目の新メンが決まりました。
2010-10-17 17:20:21同じ日にDJ道場の門を叩いていたのがARCH。俺がプラネットに着いた時はもうプレイを終えてたんだけど、SHIMAKAGEに紹介されてこれまたその場で即決した。理由はひとつ、当時プラネットでプレイしてたどのDJよりイケメンだったから!プレイを聴かずにクルーを組んだのは彼が初めて。
2010-10-17 17:30:58そんなこんなで99年11月から新生「tabou」が始動した。毎月1回月曜の開催。キャッチフレーズは「Love Sounds On Lounge」。フライヤーには月替わりでフランソワーズ・アルディ、ブリジット・バルドー、エヴァ・オーリン、イーディーが登場した。
2010-10-17 17:47:04ここらでひと息いれて、訂正とかリプライ返しとか諸々。クワトロ→クアトロでした。あと、お店の名前や外人さんの名前、曲名などを特に必要のない限りカタカタで書いてるのは単純に字数を稼ぐためです。なので、こっからはRYOTAはリョウタ、SHIMAKAGEは島影と書く。
2010-10-17 18:11:00