【三国志】夷陵の戦い前後の孫権の動き―付江陵考

夷陵の戦い前後の孫権の動きを考えた。 あわせて江陵についても調べたり考えたりした。 孫権ゲスい
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Jominian @Jominian

陸抗が火事場泥棒した時、なぜか呉軍の一部が永安を越えて涪陵の方まで進出してるんだわ。一方、陸遜が永安近くで劉備や諸葛亮と対峙してる頃、南中で反乱が扇動されている。実は、陸抗の時に涪陵の方に来たのは、武陵経由の隊で、南中の扇動が目的だったんじゃないかと邪推してしまうわけですよ

2014-01-09 21:03:02
Jominian @Jominian

陸抗の火事場泥棒の時にも、南中の扇動が企図されていたとすると、状況が40年前と重なる。呉が長江を遡っての蜀攻めを企図したのは、この二回しかない。当然、陸抗の時も40年前を下敷きにしたはず。また、40年前の件も、大方針は孫権の指示だろうが、それを戦場で実践するのは陸遜の役目だろう。

2014-01-09 21:21:54
Jominian @Jominian

章武三年の蜀攻めが陸遜のプランだとして、その40年後に実施された蜀攻めを陸抗が指揮するということは、「お前の親父の作戦が原形なんだから、お前がちゃんとやれよ」みたいな空気があってもおかしくないね。奇しくも、江陵の辺りにいるのは朱然の息子だね

2014-01-09 21:26:43
Jominian @Jominian

陸遜って、扇動がうまいのかな?樹機能と仲良くやれるのかな?

2014-01-09 21:27:50
Jominian @Jominian

章武三年の状況を考えると、40年後、霍弋が召還されなかった理由も分かるというもの。「蜀が弱まれば呉はつけ込んで攻めてくる、そして、南中は彼らの工作にさらされる」というのが、蜀の人間の中に認識としてあったのかもしれない。呉は虎狼の国である。そういう思いが根底にあったのかもしれない

2014-01-09 21:42:04
Jominian @Jominian

陸抗が永安を攻めた時、胡烈は真っ直ぐに西陵に向かった。江陵は攻撃を受けなかった。当然である。胡烈の目的は羅憲の救援であり、江陵の陥落ではない。40年前と、魏の状況は異なるのだ。

2014-01-09 22:22:50
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