のんさんと白象さんの外傷をめぐる対話~歌はどこで生まれるのか

歌は言葉に先行する。それは身体の揺れや心音や血流といった音、リズムが徐々に音程をなしたハミングになる。そんな過程を考えさせられました。
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のん @NON9056

@elephantcalli だから、私たちが彼らの死滅したエリアに立つことを受け入れ、そこで歌う(夢見る)ことが白象さんのおっしゃる「喪を悼うこと」を導くのではないかと考えています。

2014-02-06 18:49:57
のん @NON9056

@elephantcalli 前史と後史の断絶、その静止が外傷夢を生み出すというのはそうだと感じるところですが、私自身は、その途絶をひとつの空間として理解しています。ブツ切れの線があるとして、そのブツ切れには空白という空間があり、そこに外傷の要素となった他者が居座るのだろうと。

2014-02-06 19:07:10
のん @NON9056

@elephantcalli 外傷夢やフラッシュバックはそこに居座った「他者」がつくりだしたものだと考えます。でも、その他者は死を司る他者であるゆえに、本来的な夢とはいえない夢(外傷夢)(もしくはβ要素)しか生み出せないのだろうと。お答えになっているかどうか、怪しくなってきました

2014-02-06 19:08:48
のん @NON9056

@elephantcalli そうですね。結局、その含みこみ方の議論なのだろうと思っています。歌というのは、本当によい表現ですね。美が内包された表現だな、と。

2014-02-06 19:18:22
のん @NON9056

@elephantcalli そうですね。結局、その含みこみ方の議論なのだろうと思っています。歌というのは、本当によい表現ですね。美が内包された表現だな、と。

2014-02-06 19:18:22
白象 @elephantcalli

@NON9056 断絶にさらされた存在することの主体にはもちろん無力さが伴うし、だからこそ歌も物語も動かないでしょう。私は心を空間的にというよりも時間的に捉えるところがあって、心的空間という表象は意識しながらどこか流れとして感じています。動く−動かないという言葉は時空間的ですね。

2014-02-06 20:31:28
白象 @elephantcalli

@NON9056 いずれにしてもそこには断裂を巡る未完の物語が横たわっていて、私はそれを歌う主体を、状況全体が探しているように思います。おっしゃるように、生も安全も外から与えられるものではなく、ウィニコットはそれを創造と呼ぶのでしょう。あるいはボラスは変形性対象と。

2014-02-06 20:33:37
白象 @elephantcalli

@NON9056 それは1つの過程なのだと思うのです。修復とはそのように時間が動き出すことではないかと。そしてそこでどのような歌が求められているかは、求める主体にしか分からないのでしょう。その意味ですでに療法家は無力ですね。そして静止した、断絶の死を生きていそうです。

2014-02-06 20:35:47
白象 @elephantcalli

@NON9056 悪夢やフラッシュバックとはそのように、悼まれるべき喪が、その過程が、その歌や物語が、そして見られるべき夢が途絶しているところに立ち現れる、受け取り手のないβ要素であり、それはまた主体と「他者」とから成っているように思います。

2014-02-06 20:38:10
白象 @elephantcalli

@NON9056 同時にそこには断絶の直前まで流れていた、存在することのありようも含まれているのではないかと、それがやがて歌の生まれ来るところではないかと思ったりします。もちろん断絶によって、存在することはかつてのようではなく、そのこともまた歌われなければならないのでしょうが。

2014-02-06 20:41:08
白象 @elephantcalli

@NON9056 ビオンがコンテイナーとコンテインドについて論じる中で、私の記憶違いでなければ、コンテインドはそれにふさわしいコンテイナーを求めるというようなことを書いていました。ボラスの変形性対象という現象はその別の表現であるように思います。

2014-02-06 20:43:11
白象 @elephantcalli

@NON9056 コンテイナーがコンテインを可能にするだけではないのです。コンテインドが求めるコンテイナーが存在することがコンテインというつがうことを可能にするのです。ウィニコットが遺伝的な器質を可能性と述べ、その現実化を創造と呼んだのはそのことを指していると私は思っています。

2014-02-06 20:45:12
白象 @elephantcalli

@NON9056 そのように断絶にさらされた無力な主体を含む静止した状況は、けれどもその前史として存在することの連続性を有していました。それが可能性であり、私はその部分が歌うことを求めているのではないかと、歌えないけれども、歌の可能性はすでにそこにあるのではないかと思いました。

2014-02-06 20:50:16
白象 @elephantcalli

@NON9056 外傷性の記憶はそこにあって、それは亡霊のように何度も立ち現れますが、外傷が癒えていく時に果たして亡霊はある実体としてあり続けるかというとそうではなく、それを形作っているかつての状況へと、そこで蠢く存在することと可能性へと還元されるように思います。

2014-02-06 20:52:35
白象 @elephantcalli

@NON9056 ある意味ではそれは「亡霊化」と言えるのかも知れません。その源泉としての外傷的な断絶に、その前史に、そしてその後に続いてきたはずの後史に、あるいはそれでも存在している空間に、β要素の求めるコンテイナーを探すことが出来た時、亡霊は消えるのかも知れません。

2014-02-06 20:58:08
白象 @elephantcalli

@NON9056 亡霊化された外傷的状況の中にこそ歌われる物語があるのであって、歌は亡霊の内において、あるいはその奥において謳われなければいけないのかも知れません。何やら私は亡霊コンプレックスのようなものを想定し、それを主体と「他者」との断絶をめぐる静止状況と考えているようです。

2014-02-06 21:01:52
白象 @elephantcalli

@NON9056 私たちが生や安全を外から与えられないように、歌もまた「他者」には歌えないのではないかと、むしろ存在することの連続性が指し示すその先に、主体と「他者」の物語が見出され、その時に歌は「歌われる」のではないかと思っているようです。その受け身形は主語を欠いています。

2014-02-06 21:04:45
白象 @elephantcalli

@NON9056 私かあなたか、主体か「他者」か、問えない領域に歌はあると思っているのかも知れません。コンテインドがコンテイナーを求める時、つがうのは私かあなたかを問えないように。そのようなことをどうやら私は考えているようです。

2014-02-06 21:06:01
のん @NON9056

@elephantcalli そうですね。説明上、私の方がこころをより空間的にとらえているところがありますね。ただ、今回の発想の基底には時間的な発想が私にもあるんです。それをフェアバーン的な空間的な理解に説明上置き換えてしまってますが。ベルグソンあたりに怒られますね。

2014-02-07 07:01:16
のん @NON9056

@elephantcalli ちなみに余談ですが、ウィニコットの動名詞による表現は、まさにこころを「時間」的に理解することの端的な表れですね。私もたとえば「投影同一化」という静止的な名称を動名詞でいうとどうなるだろうと、分析概念を動名詞に置換する遊びを今もひそかにしています。

2014-02-07 07:09:31
のん @NON9056

@elephantcalli フロイトのリビドーも空間的であり、時間的な概念ですね。リビドーの「退行」という発想は時間的だし、転移を「失われたリビドーを探し求めること」と評するところは、いかにも時空間的です。余談が長くなりました。

2014-02-07 07:15:40
白象 @elephantcalli

@NON9056 転移についてフロイトは「失われたリビドーを探し求めること」と言っているのですか。それは知りませんでした。面白そうなところですね。そうなのですよね、ウィニコットの方が時間的なのです。クラインの投影同一化は確かに空間的な概念ですよね。中−外の広がりですからね。

2014-02-07 12:13:08
白象 @elephantcalli

@NON9056 投影同一化にはprojectという動作が入りますが、それはほとんど瞬間的なものですね。無意識の無時間性を考えれば、そのように空間的に捉える方がよりふさわしいのかも知れません。いずれにしても人間の認識が時空間の4次元性に置かれているところによるのでしょうが。

2014-02-07 12:15:26
白象 @elephantcalli

@NON9056 子供の遊びにおけるクラインによる投影同一化の記述は、むしろ湧き上がる本能衝動の表現法に付けられた名前ではないかと、そこでは本能衝動を巡る願望、恐れ、罪悪感、不安などのどれを誰が担うかの配分がなされているのではないかと最近思っています。

2014-02-07 12:19:30
白象 @elephantcalli

@NON9056 そうした配分を対象を配置して行う、遊びにおける子供の手があり、ボラスはそれを自我と呼んでいるのではないかと思うのです。『対象の影』の巻末で対象関係は自我の過程の1つの表象であるということを書いていますが、私にはそれがとてもしっくり来ました。

2014-02-07 12:20:57