大カトーは如何にしてカルタゴ滅亡を唱えるようになったか

タイトルの通りに進めるつもりがなんか色々と脱線して長くなりました。あ、あくまで基礎的な話に重点をおいて纏めたものですのであしからず。
歴史 第三次ポエニ戦争 古代ローマ カルタゴ 大カトー
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私はケントゥリオP。第十次ウソm@s祭り本祭終了。 @centurio_P
如何にして大カトーはカルタゴアンチ(語弊がある)となったかというのは面白いかもしれないと思った
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えー様々な演説(それが関係のないものであっても)の後に「とにかく、カルタゴは滅ぼされるべきである」という言葉を付け加えて、締めたというエピソードで有名な大カトー…マルクス・ポルキウス・カトー・マイヨルまたはケンソリウスですが彼が何故そのような行動をとるほどカルタゴを敵視したか?

大カトーとはどんな人間であったか

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まず、この大カトーという人物の経歴をさらっと。若き頃、第二次ポエニ戦争でローマの盾と称されたクィントゥス・ファビウス・マクシムス旗下の軍団で初陣を果たし戦った後、ほぼ無名であった家柄の出自に関わらずローマの高官職を歴任、最終的には執政官(紀元前195年)まで上り詰めた人であります
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一代でローマ共和国の中枢に上り詰めた立志伝中の人物でありますが、第二次ポエニ戦争終結後に多文化(主にギリシア)に被れ、贅沢に過ごすローマ人の監察官(ケンソル)に就任し、古来からのローマの伝統と風習をこよなく愛していた彼は非常に良い「引き締め役」であったと伝えられております。
ルシアンP @rusianp
@centurio_P 大カトーってそういう経歴の人やったんか
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ぶっちゃけると派手で享楽的な「ギリシアかぶれ」を強く批判すると共に、市民貴族問わず、良きローマ人の質実剛健さを復活させようと倹約と伝統の固守を強く要請し(悪く言うと押し付けた)、新たな文化と豊かさを楽しむ人々にはひじょーにうっとおしがられたとも言います。
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しかし、監察官と政局争いの指揮者としては非常に優秀でもあり、公金の無駄遣いや横領、賄賂などを見逃さず、その強い弁論と追求から数多くの政敵を葬った人間でもありました。ハンニバル・バルカを破った大スキピオを初めとした一派もこの大カトーらの弾劾によって失脚したのは有名ですね。
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大カトーは不正な金の動きを感じ取る強い鼻を持っていたというのは誰か言っていた記憶。ただ、まあ、大カトーは公人だけでなく私人としても厳しい上にこー愉快な人間でもあったんですが。幼女と結婚したり。
DICTATOR @SPQR_RomeFan
若い女とイチャついてたら息子の目が冷たいお… でもおにゃのことイチャつきたいんだお… だから結婚するお! なおケンソリウス
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また、大カトーはローマの農耕技術や田園風景、かつてあった農民の生活を語る上で外せない「農業論」をはじめとした数多くの著者でもあります。医薬にも通じていて体に良い食べ物とかも紹介してたり、処女の娘の尿は病に効くとかも著書に残してる。真面目に。
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まあ、個々人の捉え方で評価が変わるのは偉人の常でありますが、基本的に保守的なローマ伝統主義者であり、不正を見逃さない監察官であり、様々な知識、特に農耕や植物に長けたものを抱える厳格な人物であったといえるでしょう。
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はい、すみませんさらっとと言いつつ、また話が長くなりました。で、そのカトーが何故、カルタゴを脅威と捉え、その滅亡を声高に唱えたか。
私はケントゥリオP。第十次ウソm@s祭り本祭終了。 @centurio_P
第二次ポエニ戦争が終結して(紀元前201年)から50年以上のときが経った紀元前150年代、老いた大カトーを中心とした使節団がカルタゴを訪問しました。その目的は当時激化しつつあったカルタゴとヌミディアの王マシニッサとの領土紛争を調停する為でした。

大カトーがカルタゴを訪れたときのカルタゴの状況

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この時期のカルタゴは第二次ポエニ戦争の敗戦による重く苦しい講和条約を課せられていました。その内容はイベリア植民地、バレアレス諸島、イビサ島、マルタ島といった全ての植民地や交易中継点の放棄もしくは割譲、10隻以外の除く大小問わない全軍船の引渡し、戦象輸送用象を問わない象の引渡し(続
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大量の大麦、小麦、そして多額の賠償金(少なくともギリシアの金額で数千タラントに上る)の支払いに加え、50年以内の銀一万タラントの支払い(年200タラント払いの重さ)、そして、カルタゴが所有するヌミディアのマシニッサとその父祖に関係する都市、財産全てのマシニッサへの譲渡(まだ続
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そして、カルタゴ本国があるアフリカ外の如何なる国家、民族とも戦争をしてはいけないこと、そして、アフリカ内であっても戦争を行う場合はローマの許可をとること、という苛烈にして過酷な内容でした。しかし、これについてローマ側は「滅ぼさなかっただけありがたく思え」という言い分でした。
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それはまったくの事実でもあったでしょう。イタリアに大きな爪痕を残し、荒らされたローマ側と比べ、カルタゴは本国においては戦争前から変わらぬ都市、財産、農場、利権は維持できたのですから。そのローマの慈悲という重石と監視の中、カルタゴは大カトーが訪れる50年を過ごしてきました。
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さて、また何か脱線してた感がありますが、話を戻しますと、この重石の中のカルタゴはヌミディアとの領土紛争を激化させていました。元々、ヌミディア人による反カルタゴの争いはかつてあったリビア戦争や傭兵戦争から育まれてきたものですが(続
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第二次ポエニ戦争末期に親カルタゴであったヌミディアのマサエシュリー王国の王シィファクスを、親ローマの姿勢をとったヌミディアのマッシュリー王国の王マシニッサが破り、ヌミディア全土の王権をほぼ確立したこと(ザマの戦いでもローマ側に味方し、勝敗を左右している)で激化しておりました。
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そのマシニッサのヌミディア王国の親ローマ姿勢はしばしば反カルタゴの闘争と繋がり、紀元前150年代に至る領土紛争に繋がっていたわけです。そして、そこにローマは度々介入し、仲裁をしておりました。(この仲裁においてはローマは概ね調停者をしていたようです。ヌミディアローマ関係なく。
私はケントゥリオP。第十次ウソm@s祭り本祭終了。 @centurio_P
この幾度目かの仲裁使節団としてカルタゴを訪れた大カトーは仲裁する為の調査と称してカルタゴ本国(すでにアフリカしか領有していないのですがこうさせていただきます)を隅々まで歩き、調べ上げました。そして、カルタゴのカルタゴ足る底力を眼にしたのです。

大カトーが眼にしたもの

私はケントゥリオP。第十次ウソm@s祭り本祭終了。 @centurio_P
大カトーは「農業論」を記したと前述した通り、農耕技術や作物について一日の長がありました。そして、まず、カルタゴ本国が誇る大農場がいかに広く、地力があるか、そこで揮われる農耕技術が如何に高度で高い生産量を誇るか、そこで働く人々が如何に勤勉で諦めないかを知ったのです。
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コメント

はげはげちゃびん @hagehagechabin 2014年2月8日
おお、懐かしい。大学のローマ史でやったなあ。カルタゴ。
惣流・アスカ・ツンデレー @Asuka_Tsundeley 2014年2月9日
大カトー(ローマ軍)…ミスター・カトー(宇宙艦隊)…(戯れ言)