今日は敷居読んで寝る。キクチナナコの状況は多分「物語るためのネタ」として格好の素材だけど、あえてそれをしないことによってキクチナナコの生は「物語化によるサンギュラリテの剥奪」を免れているのです。という主張。
2010-10-26 21:03:37結局のところ純粋な「脱物語」的なフィクションを突き詰めていくと、言葉やテキストの必然的な「語り」性みたいなものからは逃れられないという点に行きつくのだろうなあ。
2010-10-26 21:17:53物語化というのは一回性/単独性を持った再現不可能なものであるはずの「体験」を、「体系的で理解可能なもの」に刈り整えることに他ならないわけで、これによって救われることってのもおおいにあるわけだけど、それが「刈り整える」行為である以上、絶対に捨象しているものがあるわけですよ。
2010-10-26 21:18:08一方「反物語」的なフィクションは、どう振る舞おうとも結局「物語」を逆照射してしまう。逆説的に「物語」の存在と権威を肯定してしまうという問題。
2010-10-26 21:19:42でもそこで捨象されているものはその性質上どうやっても「語られ得ない」ものなわけで、そうするとどうしてもそれは否定神学の形で語られるしかない。敷居の住人ってそういう漫画だとぼくは思ってます。みんなも読もう。
2010-10-26 21:20:22@shinpei0213 「敷居の住人」→「放浪息子」では、そこをギリギリのところで繋ぎとめてるのが「成長」なんじゃないかなあとぼくは思っているのですけど。
2010-10-26 21:22:17@suzuchiu それはぼくも同じように思いますね。ミもフタもない言い方すると、敷居のときは思いっきり物語化に反抗してますからね。わかりやすく。
2010-10-26 21:24:41@suzuchiu 成長ってのはある種かなり典型的な物語化なんですけど、放浪では決してビルディングスロマンみたいな形では成長が語られない。この辺りに脱物語化への意志と、単なる反物語ではないぞっていうのを感じます
2010-10-26 21:26:33@shinpei0213 「脱/非物語」的なスタンス自体はどう考えても詰んでると思うんですよ。突き詰めると言語表現すべてを否定しないといけなくなりますから。だから、「物語」化を拒絶しつつも、代わりに何か別の、時間の流れの構成軸みたいなものを入れないといけなくて、(つづく)
2010-10-26 21:27:55@shinpei0213 (つづき)志村作品における「成長」って、そういう役割を果たしてるんじゃないかと思います。単に出来事を並べるためのルールというか。でもそれってかなり荒技で、もちろん高度な描写スキルに裏打ちされてないと成立させようがない方法なんですけど。
2010-10-26 21:31:33「ことば」ってのは、基本的に、意味付けや説明のために作り出されたものだから、「ことば」による「語り」の枠組みの中で、意味付けや物語を否定しようとする行為って根本的に矛盾してるんですよ。そういった矛盾した枠組みを前提にしてやってるわけだから志村作品というのは基本的に分が悪い。
2010-10-26 21:36:21@shinpei0213 だから結局タテ糸からは逃れられないって言っちゃったらそれまでなんですよね。あと、ビルディングスロマンを伴わない成長って、身長が伸びたりとかそういうことでしかないですから、どうしても子供しか描きようがないのかもしれないという限界も。
2010-10-26 21:40:25ぼくたちは、どうあがいても「ことば」からは逃れられない。という前提を自覚、共有しつつ、どこまで抵抗できるか。というのはなかなか救いようのないテーマではある。
2010-10-26 21:43:59でも、「語り」の段階で掬われない概念に光を当てる方法はそれしかない。とも言えると思う。光を当てたところで何がどうなったりはしないのだけれど、少なくともぼくたちは「ことば」を生み出して、その代償として何かを隠蔽した。
2010-10-26 21:46:06いろいろ言ってるけど、結局ぼくが志村作品好きな理由は、「目を見てささやいた優しげな言葉 見えすいてる しゃくに触る」とか「ごらんよ幾つもの/噂話/この世界に広がる/思いっきり僕たちは/キスを投げて/さよならする」とかのフリッパーズの歌詞に凝縮されてる気がする。
2010-10-26 21:48:02小沢健二はずっと言葉の不能性みたいなのに自覚的だったと思うんだよね。新曲でも、「ありがとうという言葉で失われしもの」なんて出てくるし。
2010-10-26 21:49:42