中世の武芸について
@k_hisane 当時は作法も武芸のうちだったんでしょうね。特に騎射だとその傾向は強かったでしょうが、兵法の場合でも咒や曲芸的なものも多く含んでいたというのが島田説で、古い伝書内容からうなづける話です。
2014-02-17 13:44:25最初期の兵法者たちが僧や陰陽師、神官などであったことを踏まえると、それらが含まれるのもおかしくはないで砂。 @inuchochin 兵法の場合でも咒や曲芸的なものも多く含んでいたというのが島田説で、古い伝書内容からうなづける話です。
2014-02-17 13:58:19@k_hisane 別に煽り抜きで院政期近辺の史学における東国派と西国派による内ゲバは頭に入れたほうが良いですよ。解釈が色々あるじゃなくて、どっちも偏ってるから捨てて良いレベル。
2014-02-17 13:59:38なるほど。留意します。…内ゲバかー。@Izumi_asato 別に煽り抜きで院政期近辺の史学における東国派と西国派による内ゲバは頭に入れたほうが良いですよ。解釈が色々あるじゃなくて、どっちも偏ってるから捨てて良いレベル。
2014-02-17 14:02:04「吾妻鑑」における西行法師と坂東武士の話から
西行法師が頼朝に弓の講義をしたということについての解釈は割りと文治二年(1186)八月小十五日条項だけ見ていってるケースが多くて、実はその話の詳細が遙か後の嘉禎三年(1237)七月小十九日に語られているのよ。その記述見てない事がほんとうに多い。
2014-02-17 14:10:42文治二年(1186) 西行「弓馬の事者、在俗之當初、憖に家風を傳へると雖も、保延三年八月遁世之時、秀郷朝臣以來九代嫡家相承の兵法を焼失す。罪業の因を爲すに依て、其の事曽へて以て心底に殘し留不、皆忘却し了」 西行「弓馬の事は忘れちゃった(テヘペロ)」
2014-02-17 14:19:19頼朝「そうですか」(この後めちゃくちゃ深夜ぶっとうしで弓馬の事を吐かせた) 然而、恩問等閑不之間、弓馬の事に於者、具に以て之を申す。 即ち俊兼に其の詞を記し置か令め給ふ。縡終夜専らに被ると云々。
2014-02-17 14:20:17嘉禎三年(1237) 海野幸氏「西行法師が来た時に弓馬の話になってな、”挾箭之時、弓〔ヲ〕一文字〔ニ〕持た令め給ふ事”についての議論になった。坂東の皆は”一文字〔ニ〕弓〔ヲ〕持〔ツ〕事”が正しいと言ったんだが」
2014-02-17 14:22:43西行「弓〔ヲバ〕拳〔ヨリ〕押立〔テ〕引く可き之樣〔ニ〕持つ可き也。流鏑馬は、矢〔ヲ〕挾む之時、一文字〔ニ〕持つ事〔ハ〕非礼也者り。倩ら案ずるに、此の事 殊勝也。一文字〔ニ〕持〔テバ〕、誠〔ニ〕弓〔ヲ〕引〔テ〕、即ち射る可き之躰〔ニハ〕見不、聊か遲〔キ〕姿也。
2014-02-17 14:24:01ここまででセットで、これどう考えても西行が騎射について坂東武者より卓越した何らかの技術を持っていたとかんがえる以外無いよなという話。
2014-02-17 14:25:18引用ありがとうございます。なるほど、こういう話があったなら納得で砂。おまけに今の文で感心してる海野幸氏(http://t.co/dFOhV1NYlS)って「弓馬の宗家」とまで言われてる御仁ですし、その解釈も頷けます喃。 @Izumi_asato
2014-02-17 14:50:48【海野幸氏-Wikipedia】http://ja.wikipedia.org/wiki/海野幸氏
しかし、西行が来た時の話から50年も経って、なんで詳細が語られるのかしらん、と思ったら、幸氏がその場にいた時の回想&教訓として語られてるんで砂。あと、幸氏が弓の名手として讃えられ始めたのが建久四年(1193)くらいかららしきことを踏まえると、西行の影響の可能性もあるのかもで砂。
2014-02-17 15:00:02@k_hisane いんえ、西行の話を聞いた人物は、海野幸氏に加え、下河邊行平、工藤景光兩庄司、和田義盛、望月重隆、藤澤淸親等の三金吾、諏方大夫盛隆、愛甲三郎季隆とそうそうたる面子となっているので、西行の来た段階で海野幸氏は弓の才覚を認められていたと思います。
2014-02-17 15:22:20あらま。とすると、当時頼朝のところにいた弓の名手たちが集まって、西行の話を聞いたということで、西行の弓術が、彼らにとっても聞くに値するものだったという話の補強になる訳で砂。ふうむ。 @Izumi_asato 西行の来た段階で海野幸氏は弓の才覚を認められていたと思います。
2014-02-17 15:38:31@k_hisane 下河辺行平は吾妻鑑でも弓の名手と何度も言われておりますので、そう考えるのが妥当でしょうね。和田義盛も藤原国衡を騎射で仕留めておりますし。
2014-02-17 15:41:31