- Eric_Ridel
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26)「へー、あんたはそう思うの。おれは違うね」と思って「おれはこう思うね」と淡々と表明すればいいのだ。合意なんか誰も目指していないから。
2010-10-31 02:31:0127)そもそも人間の多様性を認めたなら、多数の人間(大衆、社会、の完全な合意、意見の一致、コンセンサスなどありえないのだ。そういう発想にならない。最大公約数的「共通点」が偶然見つかるにすぎない。
2010-10-31 02:33:5028)この「多様な人間の中で共通する最低ラインの感覚」のことを"common sense"と呼んだのだが、日本語になって「常識」と訳され、その言葉の意味がモンスター化してしまった。
2010-10-31 02:34:4229)「そんなの常識だろう」と口にするとき、発言者はもう「他者は自分と同じ知識、発想、価値観を持っている」と誤った前提を信じ込んでいる。
2010-10-31 02:36:1031)先日のルスバン3世さんと会話を交わして非常に奇異に感じたのは、彼が私へのフォローを外したあと「烏賀陽はいまごろ一方的に勝利宣言してるんだろう」と発言していたことだ。http://togetter.com/id/hirougaya
2010-10-31 02:42:0133)debateなどゲームとしての対論には勝敗はある。スポーツなのだから。裁判にも勝ち負けはある。あれは紛争が解決しない場合の最後の強制力の行使だから。
2010-10-31 02:44:1435)公的意見表明はすればするほど社会は豊かになる。それは例外はない。内面の表現を規制することはもっとも危険な身体の拘束ではないか。
2010-10-31 02:45:4736)意見の表明に「勝ち負け」がある、善悪があると思う人は、「負け」「悪」になることを恐れて発言を恐れるだろう。それが危険なのだ。
2010-10-31 02:47:5539)政治は富の再分配のシステムのひとつ(もうひとつは市場)なので、お金や権力を分配するというもっとも激しい闘争の場になる。烈度のもっとも高い闘争で、最後に人間以外にジャッジを任せることができるのは「神様」か「数」しかない。
2010-10-31 03:31:3940)神様はめったに議会には姿を現さないので、仕方ないから「数」で決めているのだ。「68:32で可決」という結果にはそれくらいの価値しかない。
2010-10-31 03:32:5241)もともと多様性があり平等の価値を認め合う人間を前提にすれば、多数と少数の間には価値の優劣がない。神様の判断の次のセカンドベストの選択として多数決があるにすぎない。
2010-10-31 03:34:3543)ところが日本が明治時代以降に導入した「多数決」は「しょうがないから多数決で決めている」のではなく「神聖な議会において数の多い精力」と理解された。それは天皇の議会だったからなのか、理由があると思う。もう少し勉強が必要なのでそこは立ち入らない。
2010-10-31 03:37:1845)この国で、多数が少数を取り扱うときの敬意のなさ、あたかも「価値の低い人間たち」のように扱う様は、気味が悪くなる。「お前らはおれたちの言うことを聞くのが当然だ」という態度は、まったく「権力的」としかいいようがない。多数が疑似権力化してしまうのだ。
2010-10-31 03:39:0846)嫌煙者が喫煙者を扱うときの、あの横暴で傲慢な態度は何だろう。私は煙草をもう吸わない。煙草を吸わなくなって、いろいろベターになった。しかし、嫌煙者の喫煙者に対するあの権力的な態度、傲慢な思考、横暴な行動を心底軽蔑している。
2010-10-31 03:40:5747)ついでにいえば駐車取り締まり監視員とか渋谷商店街の自警団のあの傲慢極まる権力的な態度も死ぬほど嫌いだが、これは多数少数とは関係がないので、ボヤクだけに(笑)。
2010-10-31 03:42:4548)日本の文化では「常識」は「多数の了解」でありそれが「優劣の優」(すぐれている、よりベターな)という価値判断が混入していないか。
2010-10-31 03:44:2749)もう一度いうが、「多数」であることそのものには何の価値もない。「多数決」は闘争を止めるための停戦の機構、妥協の機構でしかない。
2010-10-31 03:46:29