- Eric_Ridel
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1)devil's adovocateという言葉をご存知だろうか。辞書を引くと「あまのじゃく」と出てくるが、日本語でいう「あまのじゃく」と"devil's advocate"は意味がまったく違う。
2010-10-30 21:19:212)devil's adovocate(悪魔に賛同する人)とは、debateという討論のスポーツの中で、発言者の信条とは別に、まったく悪魔的なことを発言するポジションのことだ。「これに反駁することで、論が鍛えられる」という役割だ。
2010-10-30 21:21:383)議論を豊かにする、言論を活発にする、多様性を進める。そんな目的のためには論を「対論」にさらすことが大切なのだ。それで「論」の欠点や長所が見えてくるから。
2010-10-30 21:26:005)欧米人、あるいは非欧米世界でもそうだが、教室や食事の席で議論が始めると、自然にこのdevil's advocate的な発言に回る人が多い。(例)「核兵器は廃絶するべきだよね」「いや、本当にそうか?」「どうして?」「だって、核兵器保有国は戦後直接戦争をしてないんだよ」
2010-10-30 21:28:546)「でも核兵器は危険じゃない」「戦争がないのがもっとも危険じゃないってことだろ。だったら核兵器の抑止力って稼働しているんじゃないの」とまあ、こんな具合。
2010-10-30 21:29:478)話の後で「いや、すごい論をお持ちですね」というと、涼しい顔で「いや、あれはdevil's advocateだし」と言う。つまり自分の信条とは無関係に議論をした、ということなのだ。
2010-10-30 21:31:479)周囲の対論者も「いい議論をありがとう」とか言ってニコニコしながらdevil's advocate役とハグしあって別れる。「彼がいると議論が活発になるね」とか言って、こうした devil's advocateをまた議論に招く。
2010-10-30 21:35:2810)日本ではこうはいかない。論を磨くために対論を出しても「ひどいことを言うやつだ」「非常識な」「人の揚げ足ばかりとって」という反応が自然だ。
2010-10-30 21:38:4012)対論や議論というものが「意見が多様であるほどよい」というより「合意を形成する」ためにあると考えている人が多いのかもしれない。
2010-10-30 21:40:4113)議論や対論は多様であるほどよい。人の意見は多様なのが自然なのだ。合意が必要なら、最後は多数決という「数」で妥協するしかない。多数決は妥協のための指標(数という合理的指標)を出す場所である。そういう「対論と決定の文化」というのを何度も目撃した。
2010-10-30 21:43:2115)devil's advocateという言葉が日本語にならないのは、日本の文化にそれをさす概念がないからではないかと思えます。同じように日本語にならない言葉が"controversial"です。
2010-10-30 22:53:4516)辞書にはよく「物議をかもすような」とある。が日本語で「物議をかもす」という言い方にはネガティブな価値判断がどうしても混じる。「非常識な」「眉をひそめるような」に近い。
2010-10-30 22:55:0317)しかしcontroversialにはそういうネガティブなニュアンスがほとんどない。中立またはややポジティブだ。「反発を呼ぶリスクを取ってでも意見を表明する」というリスクテイカーへの敬意が基本線としてある。
2010-10-30 22:56:4418)もっと言えばcontroversialには「少数意見を表明する」「世界の見え方を多角的に提示する」というニュアンスが入っているように思える。
2010-10-30 22:58:4120)しかし、前述のように対論や議論を「合意の形成」であると信じている文化では、controversialであることは「かく乱」「妨害」以外の何者でもない。
2010-10-30 23:01:4921)ツイッターでの対論を観察していると、対論によって「合意が形成されないこと」にいらだっているだけの意見表明が多いのに驚く。
2010-10-30 23:02:3825)そもそも、違う人間がこのインターネットという巨大な「新宿アルタ前」「アメ村三角公園前」「タイムズスクエアチケットボックス前」みたいな「巨大な雑踏」ですれ違い、そこで合意なんかする必要がないし、できるわけがない。
2010-10-31 02:30:16