ヒフウ・イン・ナイトメア・フロム・リューグー#3

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@nezumi_a

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2014-03-22 17:09:10
@nezumi_a

朝と午前の境が曖昧な時間、蓮子は先に部屋を出ていた。メリーが起きないのはいつもの事で、枕が変わった時の寝起きの悪さは輪をかけてヒドイ。気にしても仕方がないので一人で見て回ることにしたのだ。軽快にロビーを抜けるとその足で海へと向かう。夜の間に雨は止んでいた。太陽眩い快晴である。25

2014-03-22 17:10:41
@nezumi_a

雨上がりであっても、重金属酸性雨特有の臭いが無いため、空気が澄んで感じられた。蓮子はまずビーチへ向かった。不本意な水着ではあったが、海水浴自体には多大な関心と興味があるのだ。水着は現地で調達すればいい。ひとりで居るときにまであの忌まわしいシルバードラゴンを着る道理はない。26

2014-03-22 17:13:30
@nezumi_a

ビーチは利用は出来るが、増水により海は荒れている。遊泳禁止のノボリを確認した蓮子は街を歩くことを選択した。かなりの雨量だった為か、路地の隅には何処からか流されてきたゴミが溜まっている。それを清掃スモトリが手早く掃除していく。ガイオンで見慣れた光景だ。27

2014-03-22 17:15:25
@nezumi_a

蓮子は観光客向けの定型めいたお土産通りを避けると、古い路地へと足を運んだ。この一帯はリゾートホテルが建つ前からある町で、元々はマグロの漁港だ。今も遠くの桟橋には数少なく漁船が見られる。ホテルのある地区と異なりこちらは静かだ。町全体に活気が無い。住人が少ないのだ。28

2014-03-22 17:18:57
@nezumi_a

今も政府による用地買収が進んでおり、話し合いが済んだ家は引っ越している。マグロ養殖施設は大掛りな水産加工施設も備えており、その働き口は広く募集されている。29

2014-03-22 17:20:06
@nezumi_a

今でこそ繁栄を謳歌するキョートも遷都の際には随分と荒れたという。複数の行政区に跨る区画整理事業と、それに伴う大量雇用。遷都特需は確かにあったが、労働者の流入や建設重機による環境汚染。地域格差が生じ、貧民街と犯罪率の上昇。目を細める。どこも同じなのだ。30

2014-03-22 17:22:40
@nezumi_a

蓮子は一軒の定食屋の前で足を止めた。『マグロ』『おいしい』と書かれた色褪せたPVCノボリが揺れている。ノーレンをくぐり、引き戸をカラリと開ける。「ヘラッシェー」やる気のない掛け声が出迎えた。薄暗い店内、屋台よりはマシという安いイスがまばらに並び、清掃がされている。31

2014-03-22 17:25:27
@nezumi_a

およそ観光客向けとは言えない店内だが、よく見れば壁にはギョタクやヨコヅナの手形色紙が飾られている。おそらくは漁港時代は大勢の労働者で賑わったのだろう。ホテルと共に出来たマグロ養殖場が彼らの仕事を奪ったのだ。ラジオから古いエンカ・ポップスが細々と流れている。32

2014-03-22 17:28:41
@nezumi_a

時計の針は午前十時。客は蓮子の他に老人がひとり、隅の卓でトックリに埋もれて突っ伏しているのみだ。「いいわ……」蓮子は呟いた。「出掛けてまでわざわざ観光客向けのオートメーションフードを食べるなんてあり得ないでしょ」蓮子は秘封倶楽部の活動でも、遠征先での食事を楽しみにしている。33

2014-03-22 17:30:55
@nezumi_a

昨夜の反省と、これからの期待を込めてメニューを見渡す。経年で草臥れたメニューはどれも汚れて剥がれかけているが、それすらも愛おしい。漁港ならではの豊富な海の幸を使ったメニューの数々。只のサンマ定食ですら、ドンブリポンのセットメニューなど足元にも及ばない感動を与えてくれるだろう。34

2014-03-22 17:33:06
@nezumi_a

「ナニにしやす」不愛想な中年男性の店員が水を出してくる。飲食店には不似合いな日焼けした肌と体格の良さが気になった。「マグロ。ショーユとワサビは別で」トークンを手渡す。「ヨロコンデー」ここはやはりマグロが主役だ。それ以外の選択肢は蓮子の頭に無い。35

2014-03-22 17:36:00
@nezumi_a

「ほら、注文から三十秒で出てくるような事もない。これよこれ」誰にともなく囁く。これはメリーも起こした方がよかっただろうか。携帯UNIXを取り出す。しかし、電話くらいで起きるような相手ではないと思い出しポケットにしまい込む。「オマチ」ゴトリ。不愛想に古びたドンブリが置かれる。36

2014-03-22 17:39:20
@nezumi_a

続けてミソスープの御椀と漬物の小皿、最後にショーユの小瓶。ドンブリにはごはんの上に宝石のような赤の切り身が並んでいる。マグロ粉末を魚介スープで溶き圧縮するという都市部のインスタント製法では、この色ツヤを出す事は絶対に出来ない。37

2014-03-22 17:42:59
@nezumi_a

マグロ・ドンブリはキョートでも一般的なファストフードだ。熱圧縮の際に独特の匂いがあり、相殺するためにワサビやガリを多用するのが常だ。「あの匂いが無いだけで贅沢ってもんよ」蓮子は「頂きます」と合掌するとポータブルショーユポンプを手に取り、タールの様に黒いショーユを慎重に垂らす。38

2014-03-22 17:47:27
@nezumi_a

かけすぎはマグロの風味を殺してしまうが、蓮子はそのようなウカツはしない。赤い切り身に黒が落ち、ショーユがマグロの筋繊維に染込む。その透明感に感動すら覚える。「オーガニック……」蓮子はうっとりと呟いた。朝食は抜いてある。あとはもう食べるだけだ。39

2014-03-22 17:50:22
@nezumi_a

ゴハンとともにマグロ一切れを掬い上げ、そして口に運ぶ。咀嚼。嚥下。 「……!」蓮子は目を見開いた。ワサビが効いたのではない。美味いのだ。世界のあらゆるものが合成物に置き変わっていく時代、自然素材のものはそれなりの大金を積まなければ手に入らない。その贅沢を今、噛み締めている。40

2014-03-22 17:52:28
@nezumi_a

マグロ、ごはん、ショーユの三者が折なすボン・ダンスのごとき雅やかなハーモニー。感動のあまり蓮子目尻に涙が浮かぶ。二口、三口と口に運ぶ。手が止まらない。止まらないが、一口ひとくちが惜しい。アンビバレンツに悩みながらもマグロは消費され、蓮子の胃の腑は満たされていく。41

2014-03-22 17:56:35
@nezumi_a

不意にショーユのラベルを確認する。メーカーはカイヅマ。最近経営陣のクビキリがでニュースになっていた会社だ。細々とやっていた町の小さな工場を今の社長が一代で大きくしたらしい。確かな品質を適正な価格で。今のキョートでは珍しくなりつつある気質の会社と記憶している。42

2014-03-22 17:58:26
@nezumi_a

瞬く間にドンブリが半分ほど空になる。ここでキューリの漬け物をかじり、セットのミソスープをひとくち啜る。あくまでマグロ丼が主役であり、ミソスープはネギのみを具とし、過度の主張をしない。「漬物も悪くない」蓮子は頷くと再びマグロにとりかかる。43

2014-03-22 18:00:10
@nezumi_a

柔らかさに潜む動物性蛋白質の旨み、ヒヤリとしたマグロの切り身と温かいゴハンのせめぎあい。蓮子は今回の遠征に賛成してよかったと噛み締めた。至福の時は短く、終わりはやってきた。「ゴチソウサマデシタ」食事終了の合掌し一礼。満ち足りた腹により若干きつくなったスカートを意識する。44

2014-03-22 18:02:55
@nezumi_a

食器を下げにきた店員にチャを頼む。「おいしかったです。さすがマグロ漁港ですね」「ドーモ、新鮮さならツキジと勝負しても勝つ自信がありますよ」「ショーユもいいですね」「お客さん、なかなか通ですね!」こういったグルメ気取りの観光客は煙たがられるものだが、この店は少々寂れすぎていた。45

2014-03-22 18:06:02
@nezumi_a

この辺りに観光客など来ない。しかし蓮子は奥ゆかしく店のカンコドリに気づかぬ振りをする。「こんなにおいしいマグロを食べられただけでも来た甲斐がありました」「ドーモ!また来てくださいね!」地元のマグロを褒められ店員に誇らしげな笑みが浮かぶ。日に焼けた笑顔、健康的な白い歯が眩しい。46

2014-03-22 18:08:55
@nezumi_a

「……この辺りもな」 その時、それまで店の奥でトックリに埋もれていた老人が口を開いた。 「この辺も、あの変なヨロシサンの連中がくるまでは栄えた港だったんだ……」「辛気くさい話はよさねぇかジジイ」店員が困った様子でどやしつける。咳き込む老人。47

2014-03-22 18:10:23
@nezumi_a

「すまねぇな嬢ちゃん、酔っぱらいの言うことなんで気にしないでくれな」そう言われて無視できるほど蓮子も淡白ではなかった。好奇心でその老人の方を見る。老人の髪は潮焼けでばさばさで、注意深く見れば、痩せてはいるが日焼けした腕に筋肉の盛り上がりが見て取れる。彼も、漁師なのだ。48

2014-03-22 18:12:49