- ishitakuma
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さらに、阿部は映画の記録性の問題に注目する。 「記録というのは、おそろしいものである。記録係は、たとえ表立った裏切りをしなくても、やはり射殺されてしまうことがあるかも知れないのだ。記録係を裁いたものが、彼自身、次にまたべつなものに、やはり裁かれてしまう記録係であるのかもしれない。
2014-02-05 22:41:34すくなくとも、記録者はつねに、そうした危険にさらされているはずのものだろう。 記録者を裁くものは、たぶん、その記録者自身なのである。」
2014-02-05 22:42:58そして、最後に流れるエイミー・グッドマンの言葉も忘れないようにしよう。 「オバマ大統領が当選した時は世界中が安堵しました。 あの時市民は、 思想信条を超えて全力で変革を起こそうとしました。 長い間世界の閉塞状態が続いた後で、 あの時はやっと扉が開いたと誰もが思いました。
2014-02-06 21:05:30しかし、問題は開きかけた扉をどうするかです。 それを蹴り開けるのか、 また閉めてしまうのか。 これは大統領ひとりがどうこうできる問題ではありません。 私たち一人ひとりの草の根運動にかかっています。」原発問題も本当に同じだ。おまかせ政治では何もできない。
2014-02-06 21:06:43エイミー・グッドマンのインタビュー書き起こしが読めます。→ http://t.co/7Y82GCmGNw
2014-02-06 21:11:23日本の代表的な前近代的政治家を類型づけるとボス型と任侠乃至テキヤ型とあるだろう。両方とも、政治的精神の次元が独立せず、特殊的利益に直接に繁縛されている点では根本的な相異はないが、一方のボス型はむしろ比較的ノーマルな小市民生活の上に地盤を置き、もっぱら日常的経験を通じて「地味に」
2014-02-16 00:37:18行動するのに対して、後の型はいわゆる反社会的集団といった異常な生活環境を地盤として傍若無人にふるまうという点で区別される。とすればまさにボス型はいわゆる私小説派で、任侠型は肉体文学はということにならないかね。しかも肉体文学の「異常性」が結局私小説的日常と同じダイメンジョンの上に
2014-02-16 00:41:18立ち、ただその「恥部」を不均等に拡大した過ぎないのと同様に、任侠型の地盤である反社会的集団というのも、決してわれわれの生活基盤と質的にちがった源泉から生まれるものではなくて、むしろ日本社会自体の恥部である家族制度の戯画化じゃないか。―丸山眞男「肉体文学から肉体政治まで」
2014-02-16 00:44:31ピエール・フランカステルは、これまで読んでこなかったが、彼が力強く信じている部分に勇気づけられるところや、偏見を持たれやすい部分を裏返してくれると感じる部分が多い。『形象の解読1/芸術の社会学的構造』の「発生的空間と造形的空間」から少し抜粋してみる。基礎的に感じるかもしれないが。
2014-02-19 01:09:04“子どもの空間が、その特徴がユーグリット的でないこと、要するに〈線、角、矩形、円等々の最も単純な形象も、尺度も、明白な所与である〉という前提に立たない初歩的直感からはじまる、ということを主張し得るようになったのである。そしてさらに、子どもにおける初歩的な空間直感がユークリッド的
2014-02-19 01:13:09でなく、むしろトポロジー的であるということも明らかにされている。〈トポロジー的〉〔空間直感〕とは、すなわち最も抽象的な分析から出発し、距離の保存や投影性をすべて排除し、臨接、分割、序列、周囲ないし包含、連続等々の概念の助けによって、二重連続的で、質的な――しかももはや量的ではない
2014-02-19 01:16:15――対応を、ユーグリッド的諸公準に代わる空間的直感の基礎として取り入れる最近の幾何学的理解仕方にかなう空間直感である。…今日、ある種の美術史家たちの間には、「プリミティヴ」なヴィジョンと「古典的」なヴィジョンとの永続的な疑似対立を一層拡大させようとする傾向が見られるが、
2014-02-19 01:21:52私はそれに敢えて異議を唱えたい。この安易な観念的二元論こそ時代錯誤なのだ。問題は永遠の二律背反でもなければ、勢力圏の盛衰でもない。知識の進歩である。”
2014-02-19 01:26:53“トポロジー的空間表象は、〈類似的なもの―対比的なもの〉、〈同一のものー別個なもの〉、〈部分―全体〉、〈局所―偏在〉、といったかくの限られた種の〈対〉の両義性に依存する。分明な対象の固定的局在にまったく依存しないばかりか、主体の深い印象にしか結局関与しない〈質〉区別が問題となる”
2014-02-19 01:30:40「私が美術学校にいた頃、恣意性は最大のタブーだった。人の作品について言える最大の欠点は、それが恣意的に見えるということ——趣味の機能にすぎないということだった。真の芸術は作品の外側の力によって必要とされていると感じられる必要があった。(続く)
2014-02-26 19:38:45気ままなものではなく、論理的なものとなる必要があった。われわれは現在、こういう考え自体が趣味の機能であったことを知っている。作品が生み出した一連の決定があまりに曖昧であるときに、人々は恣意的という言葉を用いる。(続く)
2014-02-26 19:39:09人々は、決定を見てとることができないときに、作品が恣意的に動機づけられていると感じる。私はまさにそういう精神状態に関心をもっている。重要な点は、時として、あるものがそのようにあることがなぜかを言うのが大変に困難であるということだ。(続く)
2014-02-26 19:39:48あることをやっていると思い、まったく別なことをやっているのに気付くという状況に私は強い関心をもっている。」 デイヴィッド・サーレ『スタイル、イメージ、恣意性』
2014-02-26 19:40:20論理的に可能なもの全てが本当に可能であるのだから、そのとき死者の復活は非論理的ではない、それは同じように可能であるはずなのだ。そして、復活はただ可能であるだけはない。つまり、それは蓋然的か否かにさえ運命づけられていないのだ。 (「神聖なる非存在」)
2014-03-16 12:15:07創発する新しい状態の質的内容は、不条理なしには、以前の状態のなかにその予見された存在を見出すことが不可能であると思われるようなものである。 (「潜勢力と潜在性」)
2014-03-17 02:14:51すべてが実際、崩壊しうるのだ。木々から星々まで、星々から諸法まで、物理法則から論理法則まで。そしてこれは、すべて滅びるべしとする何らか上位の法のためではなく、いかなるものであれ、それを滅びから守ることのできる上位の法の不在のゆえに、なのである。 (『アフター・フィニチュード』)
2014-03-17 16:15:00「ブラフマン」と「アートマン」ってどういうものなのかしらね。この世界も私たち人間も、時と共に絶えず変化しているわ。でも、その中に決して変わらないものがあると古代インド人は考えたの。そして、「世界の不変なる部分」を「ブラフマン」、「人間の不変なる部分」を「アートマン」と呼んだわ。
2014-03-17 18:13:28哲学者が永遠なるものを発見したのは、彼らが、ポリスはどの程度まで不死であるのか、それどころか、どの程度までつづくのかというもっともな疑念を抱いていたからである。そして、この発見の衝撃はあまりに大きかったので、不死への努力を全て見下さざるを得なかったのだろう。(『人間の条件』3)
2014-03-20 02:38:52哲学は決して嘆願にならない。だが、嘆願がなければ答えは返ってこないのだ。どんな答えも問いに先立つことはあるまい。それに、不安なしの、刑苦なしの問いとは何を意味するというのだ。発狂の寸前に、答えは突如として返ってくる。そうでなくて、どうしてこの答えを耳にすることができるだろう。
2014-03-23 00:12:58「気力は眼に出る。生活は顔色に出る。年齢は肩に出る。教養は声に出る」といった土門拳。教養は声に出るという言葉が残った。確かにそうかもしれない。また、自分では一番客観化できないのも、声だなと思った。
2014-03-23 02:06:01