- yoshihirohorii
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我々が、自分にとって何か新しい対象を認識する時には、二つのパタンがある。一つは、完全に未知の、それまでの客観的な時間軸上で、一度も遭遇したことのない対象との出会い。もう一つは、それまでの客観的な時間軸上で、一回以上の何度か近接したにも拘らず、それと認識できなかった対象との出会い。
2014-01-24 00:45:09事象として恋を例に挙げると、前者はいわゆる一目惚れや行きずりの類で、突発的な恋心の認識。要するにある種の発作。一方の後者は、ずっと昔から知っていた相手を自分が思っていた気持ち(あるいはその逆)に、ある時点で初めて気付くような場合。多くの場合が後者だけど、前者には騙されやすい。
2014-01-24 00:53:36一番の問題・議論になるポイントは「客観的な時間軸」なるものは、それを認識し得ない主体にとって、果たして存在するのか?というところ。もちろん物理的には存在する(外在する)けど、知覚の範囲外のそれを、どうやったら主体の主観世界の中で定義付けられるのか、という問題・議論がある。
2014-01-24 09:50:11考えてみると社会問題から科学的テーマまで、我々人類はすべてこれと戦っているだけのような気がする。基本的に科学の世界は、これらの外在に対してオープンであろうと努力している世界だけど、人文系は基本的に逆に働く。そうでないと、対象を「意味付ける」ことが出来ないからだ。意味という病。
2014-01-24 09:53:17でも、科学は誠実で純粋だと考えるのはアホだ。科学は常にイデオロギーや損得によってその判断の時空を歪められている。要するに科学もまた「意味を要求されて」る。たぶん我々人類は無意味や無意味であることに耐えられないのじゃないのかな。
2014-01-24 10:08:07前にも呟いたけど、私の中ではこの「意味」は「空間」に正確に対応してる。「空間」は、それ自体は建築の客観的な物理的実質でなく、客観的な物理的実質によって生み出される(あるいはそれによって排除される)、客観的な物理的実質「以外の部分」を指す。
2014-01-24 10:09:11例えば我々は柱の断面の内部を空間として認識しないしできない。柱という物理的実質が、それ自身の排除する気積以外の部分を、我々は「柱のある空間」として識別する。あるいは「身体の中」と言う時に思い浮かべるのは腕の断面ではなく、胃腸などの空洞部分だ。
2014-01-24 10:12:30建築それそのもの、建築物という客観的な物理的実質自体は「空間」それ自体ではなく、建築物によって排除された気積を、我々は「空間」として認識する。だから建物自体は「空間」そのものではないんだ、「空間」は建物の残余なんだ、と考えよう努力するんだけど、どうしてもその残余が着いて回る。
2014-01-24 10:18:00「意味」から自由でいるために形式性を追求しているつもりでも、その結果にはどうしても「意味」が発生し、それどころか「意味」をそこに探してしまう。あるいは求められる。そういうような倒錯が間断なく四六時中起こっていて、アタマを混乱させ、苦しめる。
2014-01-24 10:23:03べつに新しい議論とは思わない。というより、人類は何千年もこの問題に頭を悩ませ続けていて、しかも、この問題の解決を、種としてはほとんどもう「諦めて」いる。そんなことはよく分かっている。でも脳が勝手にそれについて考え、悩まされている。そういう病気なのだと思う。
2014-01-24 12:01:05いまの「脳が勝手に考え、それに悩まされている」は、正しくは「脳が勝手に考え、主体がそれに悩まされている」と書く方がたぶん正しい。主体の位置が再び謎だ。
2014-01-24 12:03:23