1F作業員の負傷・搬送 2011年3月14日(3号機水素爆発)
- 東京新聞
東京新聞:福島原発事故 その時私は [3・14]オフサイトセンターで医療支援 鈴木敏和さん(59)◆閉め切られた扉 自衛隊員ぼうぜん http://t.co/sbc2vclLZ5 #オフサイトセンター #放医研 #3号機水素爆発
2014-04-08 16:02:29①十二日朝、千葉市の放射線医学総合研究所から自衛隊ヘリで(福島第一原発から五キロの)オフサイトセンターに向かった。深刻な事故と思わず「帰りの足はあるかなあ」と考えてました。センターは携帯も通じず、テレビ以外の情報はなし。でも不安はなかった。
2014-04-08 16:03:16②ところが周りを歩くと、ポンと放射線量が上がる所がある。原因は原発から戻った車。放射性物質が漏れていると知りました。セシウムが出てることも。メーカー時代は原子炉の設計担当。核燃料が破損しないとセシウムは出ません。 @mtx8mg
2014-04-08 16:03:47③そのうち屋外の線量が上昇します。センターの窓や扉を全部閉じるよう指示しました。東電の武藤(栄)副社長(当時)の表情を見て、重大な事態になっている、と感じた。 @mtx8mg
2014-04-08 16:04:20④十三日には、センター隣にある県の緊急被ばく医療施設を自衛隊の協力で復旧して、十四日朝に給水車が来てシャワーも使えるようになった。その直後にセンターに戻ろうとしたら、閉め切った玄関ガラス扉の前に六人の自衛隊員がぼうぜんと立っていました。 @mtx8mg
2014-04-08 16:05:01⑤一人は血が出ていました。でもセンター内の人はガラス越しに見ているだけ。(放射能汚染を防ぐため)「扉を開けるな」と言われていたからです。 @mtx8mg
2014-04-08 16:06:03⑥隊員は、3号機の爆発に巻き込まれ、線量計を近づけると毎時一ミリシーベルトもあった。服を切り裂いて裸にしてシャワーを浴びてもらいました。切り捨てた迷彩服の線量計が次々に鳴りました。警報の設定値は二〇ミリシーベルト。
2014-04-08 16:08:16⑧反省点は、とにかく情報が足りなかったこと。重い衛星通信装備を持たずに、線量計と医療機材だけでヘリに飛び乗りましたが、やっぱりフル装備じゃないとだめですね。
2014-04-08 16:09:02放医研 富永隆子氏資料 3号機水素爆発による負傷者への対応 http://t.co/w7FFdZuXFw http://t.co/v75sXvpSAK
2014-04-08 16:14:18関連まとめ
3号機爆発の後、1Fから完全撤退してしまったことで、自衛隊に不信感があったけど、この負傷者対応の酷さも影響していたような気がしてきました。
fvjmacさんからの情報
関連) プロメテウス・「影」が動いた:6「うわっ、これは高い」 https://t.co/VyT2nxSjkM 7「車ごと吹き飛ばされ」 https://t.co/dX02uCyHv5 8「どうなんですか!」 https://t.co/HK6ammw7RN @mtx8mg
2014-04-10 00:21:42①「隊長以下6人のうち1人は背骨にひびが入る重傷で全治1カ月。3人が打撲。被曝量は最も高い隊員で27・4ミリシーベルトと後でわかった。」「保安院や東京電力の社員が事務的に発言した。爆発については最初に触れる程度で、炉の状況や冷却方法などに話が集中した。」 @fvjmac
2013-01-29 11:46:34②「最後に岩熊の順番が回ってきた。 物静かな学者タイプだ。その岩熊が、語気を強めた。「今回、けがをしたのは私の部下です。爆発は事前に分かっていたのか、処置が悪かったから起きたのか。いったいどうなんですか!」 しーんとした。 だれも答えないまま会議は終わった。」 @fvjmac
2013-01-29 11:47:40③「直後に東電の責任者が走ってきて頭を下げた。 「大変なことになってしまい、本当に申し訳ありませんでした」 岩熊らが3号機に向かうことが決まったのはこの日朝だった。 「すぐに水を入れないといけない状況です。自衛隊さんしかお願いできません」と池田に頼まれた。」 @fvjmac
2013-01-29 11:48:22