労働から遊びへの転回だそうな(^-^)/
- sunamajiri
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お腹が空いてきたのだが、じつは労働より遊びだ、遊びは言葉遊びより音楽だ、音楽はアフリカだとなるのだが、そんなこといってると今度はお腹が空いてくる、という円環運動があってね。まあそれ自体労働というより遊びみたいなものだが。だいたいライプニッツがデカルトを狭義に解釈するからいけない。
2014-04-14 20:58:26それで、スコラみたいに本読んだり、本読むことでもある労働したって自然が人間に組み込まれるわけがない。そんなもん延長だろ?となって、遊びだ遊び、言語も音楽だ、音楽はアフリカだ、となるのにはジョン・ケージというよりジャズを感じたw(^-^)/ @TKDOMO
2014-04-14 20:55:25手許にハイイメージ論がないのだが、デカルトのように本読むの嫌い宣言で、あれ俺ってすごいこと言っちゃった?ってのがコギトとして、ライプニッツが神の必然性に戻すと、自然が人間に組み込まれ、マルクスは労働が自然を人間に組み込む。でも吉本さんは遊びじゃないの?という。@TKDOMO
2014-04-14 20:49:04ハイイメージ論2か。神が人間に自然を組み込むのは労働でなく遊びだろ、というマルクス批判だったっけ。吉本の遊びは世代タイミング的に柄谷は真似できないよね。それでデリダがハイデガーのズッコケのように、柄谷もずっこける。http://t.co/UfhN67jLXW @TKDOMO
2014-04-14 20:45:47@sunamajiri 吉本はライプニッツを読むのに、ヘーゲルが幾何学に生命と変化(弁証法)を導入しようとしたのを突破口にしてるみたい。現実には対象と主体の間で二重化(反復される)する過程そのものをたどっていくヘーゲルのゆらぎに人間の認識の自然過程を見出してると思う。
2014-04-14 11:52:37@sunamajiri 「ん」(|N|)に(沈黙に)向かうのも、それは自然過程なんだという基本認識があり、これを言語以前へ遡行できるサンプリングとして「母型論」で重視してる。言語以前を言語で探究しなければならない困難?を遊んでる吉本の才はやっぱり詩人ならではなんでしょ…w
2014-04-14 11:51:20@sunamajiri 日本語は完全に分節化されて再構成されるという過程の逆?をいくからというのがベースにあるんだろね吉本。 無音の前段である「ん」(|N|)に向かって5母音(奈良時代~)が3母音(与那国方言など)に縮退する過程に代表されるものを重視していてこれが沈黙への過程と。
2014-04-14 11:49:32@sunamajiri 日本人は数学好きと同じで秩序立ったものに惹かれるのかも。ただそれを捨てるのも躊躇しないとこが救いか? 自分的にはライプニッツは好きでない、めんどくさそうw
2014-04-14 11:42:16@sunamajiri 吉本が音楽論?「像としての音階」で、予め調性が設定されてそこから音楽を聴く(あるいは作る)のと人間がイメージを持ちそこから演繹?して認識するのを相互にパラフレーズしてる。音楽と分裂症の比較で、浅田彰らのJ・ケージ論よりこれが面白いw
2014-04-14 11:40:52@sunamajiri 自然(音)に対する人間の反応が反復されるうちに音声化するてな認識するのが、白川静が書を反復して逆に漢字の書かれた初源(の思い、観念)へ遡行しようとするところになんか類似を感じるw 以来<反復>にハマりってますw
2014-04-14 11:39:43ドイツ語でというところが味噌ね。観念をカテゴライズして観念論にしたり、一般カテゴリーと実存カテゴリー、というように分節化するのは、なぜかいつもドイツ語のようだからね。https://t.co/rxEAq7F43w
2014-04-14 07:48:00この日本語のphoneticsは象徴詩にならない限り、インド・ヨーロッパ語族のような音楽的なメロディーに切断できない、という吉本の詩論がでた過去問の話題を思い出すが(^-^)/ http://t.co/cOnpo17D7O @TKDOMO
2014-04-14 03:38:37『言語にとって美とは何か』? 倭語の擬声語が独自の表出だ、昨日のチョムスキー論が言及するライプニッツみたいね。@TKDOMO 知覚を経由した認識が心身から何らかの価値判断されてそれが身体的な運動に表出する(発声するとか)吉本はそこで http://t.co/3dOAmKTKWs
2014-04-14 03:31:09事象の本性が表出する観念が実在的か、なんてのはライプニッツのスコラ学への回帰らしいね。『ライプニッツのデカルト批判』では、それが幾何学に対する解析学の発生と明確化されていたが。観念って善のイデアのことよ。http://t.co/yWQKgdW8BK @TKDOMO
2014-04-14 03:23:49音楽は言語のように擬態語か?ということ? 何を問うているのか分かりづらいが、表出する観念というのはライプニッツのデカルト批判だろうが、それでは観念が数学になってしまいそうだ。(日本人は)ライプニッツが好きそうね。@TKDOMO 観念(の表出)にみえるけど全然違うんだろね
2014-04-14 02:59:39@sunamajiri 観念(の表出)にみえるけど全然違うんだろね。観念的なものはあとからつけたカバーで。知覚を経由した認識が心身から何らかの価値判断されてそれが身体的な運動に表出する(発声するとか)…吉本はそこであらゆる知覚が触覚や味覚と不可分だった頃まで遡行するとか解いてる…
2014-04-14 00:33:55詩は音楽のように、音楽の出来ない人にも聴こえるからね。音楽がそこはかとなく聴こえてるだけで音楽のできない人が、評論を詩のようにさせたがるように聴こえるのだが、ハイデガーにしろ柄谷にしろ、吉本のように詩は書けないんだろうね。あれは観念なのかね? @TKDOMO
2014-04-14 00:22:49@sunamajiri そういえば柄谷の、最期は詩作へ行ってしまったというハイデガーへの揶揄って、中上健次へのスタンスでもそうだけど、そこはかとなく引け目がチラつくね。その繊細?さがかろうじて柄谷のエナジーに代わるものだったりして。大本ねーさんのいうとおり、そういう類の鋭さだね。
2014-04-14 00:17:36感覚を欺く神をデカルトが追い払っても、その視野の有限さが無限の観念を要請するからね。柄谷のあの書き方は、ハイデガーもそうだが、詩作とは程遠い、詩作への引け目のような語り方よね。@TKDOMO おお、観念からの転回のための詩だったか!いま気がついたw
2014-04-14 00:07:09おお、観念からの転回のための詩だったか!いま気がついたw @sunamajiri 吉本の鋭さに柄谷が共鳴しきれかというと疑問なのだが、逆に狭さゆえに広い観念が夢想されているがための鋭さだったのかもしれない。有限の認識からは無限の観念がうまれ、観念からの転回が効かなくなるからね。
2014-04-13 23:56:33@sunamajiri そう、柄谷の柳田本も共同幻想論批判と読む人いるみたいだけど、たぶん僕はこの方法で行きます!的なものだと思ったw 吉本との差を知ってこそ自らの方法を持ち得たみたいな。エグザンプルが古いから読みにくい感じするけど、吉本探究は面白いです…w
2014-04-13 23:50:48たしかに、吉本の鋭さに柄谷が共鳴しきれかというと疑問なのだが、逆に狭さゆえに広い観念が夢想されているがための鋭さだったのかもしれない。有限の認識からは無限の観念がうまれ、観念からの転回が効かなくなるからね。@TKDOMO 柄谷行人氏に知覚の限定が観念の増長を招くという発想
2014-04-13 23:40:15@sunamajiri 柄谷行人氏に知覚の限定が観念の増長を招くという発想がベースにあるなら、もろに吉本隆明の知覚と観念が逆立する式の認識の遠隔対称性かなとも思うけど。19歳で吉本隆明に参って、そこからの離脱を思想的営為にしてると考える人は多いだろから、どう思われてんでしょw?
2014-04-13 23:08:43@sunamajiri 確か秒速5㎝位で動く物しか見えないあるいは予め見えるようになっているとかいうw…知覚の限定に生が決定されていることから逆に超えるべきものを探そうとしていたような印象があった若き柄谷行人の誰かとの対談だったよ。浅田彰氏だったか岩井克人氏だったか、記憶不明…w
2014-04-13 23:00:41