楽しみと幸福と強さと倫理。
- L_O_Nihilum
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以前レインさんがRTしていた何らかのBotのつぶやきのなかに、楽しみを続けることは他者がいるから成立する、っていうのがあったと思うけど、そうすると自分の楽しみを自己肯定する、とかいうのは、自分を他人として扱ってるんだろうか。 楽しむことそれ自体が、自分自身との会話になるのだろうか
2014-05-24 11:30:14それを楽しむことに「必死」になってる、んだけど、必死は必死で、また別の意味がある。それを楽しんでなければ、気分が落ち着かないというような依存性の場合にもあてはまる。依存的な「必死」は、対話をしてるんだろうか。
2014-05-24 11:32:54やたらめたら仕事する場合がある ストレス発散ではなく、ストレスの隠蔽=自分から自分のストレスを隠すために、仕事のほうに依存する場合。仕事をしている間は実質「安心」ではないけど、してないときが不快なことが多くて、それが隠せるところにある種逃げ込んでる事例。
2014-05-24 11:35:57ぽふさんの「好きを捨てることは我を捨てること」という命題もちょっと興味がわく 逆に我を捨てればすきを捨てる、ことになるのだろうか 好きを捨てることは我を捨てることの必要条件か、十分条件か
2014-05-24 11:38:17別に好きなものや趣味のない人は我がない人になるんだろうか まあ「好き嫌いあるいは無関心」が存在しない以上、どんなことをしてもさせられてもされても、嫌いにならないし、自分を示すことをしなくて済むわけだから、外から見れば「我がない人」に見えるけども
2014-05-24 11:39:22自分の好きのためだけに行動する人のことは、おもしろいもんで 「我が儘」(わがまま=われがまま=わたしのまんま)と呼ぶのねえ
2014-05-24 11:40:21我が儘ってのは我を捨てられない状態なのかな でも我が儘であることは、自分を好きでいること、自分を捨てられないことの必要条件でもない なぜなら我が儘じゃなくたって我を持ったままでいられるし、我が儘じゃなくても我を捨てることなんて『不可能』だから…っていうと、永井均哲学っぽいな。
2014-05-24 11:42:07楽しいことがない人生は我がないかのように暮らして見えるけど それでも自分が好きっていうことはできるよね いっぽうで、自分が好きであれば、どんなに周囲に自分の好みや趣味がなくても、その生活を楽しんだりできるのだろうか
2014-05-24 11:43:48もし二項目が完全に真であるなら、ぶっちゃけ趣味なんてなくても毎日ハッピーだ でもそうすると生きていることそれ自体がハッピーなこと、楽しいことだってことになっちゃって(ハッピー=喜びと、ジョイフル=楽しいは別ものかもだけど)
2014-05-24 11:45:10そうすると楽しくないものなんてない、生きていることが楽しいの十分条件になってしまうので これはこれで信憑性に欠けるんだよなあ。
2014-05-24 11:45:50なんでかってと、『自分が好きかどうかに関わらず、楽しいことも喜ばしいことも一切ない』人はいないことはないし、げんにそういう人はいるから。 地獄に落ちていろんな処罰受けてる人とか ゾロリみたいに地獄を楽しく乗り越えた例もあるけどさ
2014-05-24 11:47:06一切生きてる世界の、一切の諸法が楽しくない人って実際いると思うんだ 毎日がつらいか、退屈してる人 そういう人がいるのに、生きてることイコール楽しいあるいは喜ばしいことだなんて軽くは口に出せないよなあ。
2014-05-24 11:48:39享受論的疎外という話をこの前したけども 享受形態が内容を持ち、その両者の関係性がまた別の形態と内容を疎外するってことを命題にしてたよね。 享受そのものがないあるいは不可能な人がいるってことは、そもそも享受そのものが非享受・不可享受を疎外してるってのも真だよねぇ
2014-05-24 11:50:07「俺は毎日が楽しい!つらいことも苦しいことも楽しい!人生とは楽しみそのものだ!」って人がいるが それが成り立つのは 「俺は毎日が苦しい!喜ばしいことも楽しいことも苦しい!人生とは苦しみそのものだ!」 って人がいるからこそ、なんだよなあ。脱構築的に。
2014-05-24 11:51:15なぜか。簡単。 そうじゃなかったら、生きてること自体が楽しみだ、という命題は成り立たない。 もしそれが単独で成り立ってたら、 生きてる≡楽しい という同義になっちゃって、これは要するに楽しいって言葉が必要ない、トートロジーが出来上がってしまうから。
2014-05-24 11:52:19楽しいって言葉が意味を持つためには、「楽しい」でないものがなければならない。 じゃあ生きてる(つまり人とかが諸活動をしている)こと自体を楽しみで全称できないってことになる。 しかしそこで、「人生そのものが楽しい」って言葉は有意味に使われている。 ここに大前提を置くと。
2014-05-24 11:53:43それは「すべてが楽しみになる」という状態を、比較できる状況を外部に用意しているということになるから。 それが比較できなければ、それが楽しみであるというのも無意味になるから。 つまり、「すべてが楽しみになる」の外側に、「すべてが苦しみになる」ことが存在するし、
2014-05-24 11:54:52それはつまりまさに、 すでに「すべてが楽しい」の内部に、「すべてが苦しい」の要素があるってことと同義。 内部の内部があるから、外部があって、この外部の存在がわかったら、これを内部から外部に追い出すことはできない。脱構築的な真理だ。
2014-05-24 11:55:53脱構築って要するに疎外を現象学することだから、「すべてが楽しい」「生きることそれ自体が楽しいことだ」という命題をエポケーしたら、間違いなくその内部に「すべてが苦しい」ことが入ってないとおかしいことになる。
2014-05-24 11:56:46まあでも皮肉めいてて面白いかもね 全面希望人は、全面絶望人たちの堆積した土の上で人生を謳歌しているから超ポジティブで偉人と思われていて、 全面絶望人は、全面希望人たちの存在によってその存在を認識してもらってるから、「依存して甘えている弱者」に見えてしまう ってね
2014-05-24 12:00:48ほんとうは依存もしてなくて、孤立していて、つらいのに、 その孤立やつらさを保存しているのは、お金持ちだったり幸せだったりの強者なので、 弱者が弱者として生きていることは、それ自体が甘えに見える これ、生活保護とかの社会問題の理論に色濃く表れてるはずだと思うけど 批評にもね
2014-05-24 12:01:51