廣瀬浩司氏と上山和樹氏の対話より

自然と制度と自由と真理との関係についての二人のやりとりの記録です。最後に蛇足つき。
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上山和樹 @ueyamakzk

QT @parergon2 >《自己について語らないためにはどうするか。》 >《真理を特権化することなく、それぞれの制度における真理の体制を系譜学的に分析すること。》 「いつの間にか、こういう方向で考えて(生産して)しまっていた」――そのことに注意深くあろうと。

2014-06-09 04:50:18
上山和樹 @ueyamakzk

「自分語り」って、語る本人は《自由気ままに》話してるつもりなのに、徹底的に飼い馴らされる語りしかしていない。いわゆる「当事者」周辺で、このことに気付いてる人がほとんどいない。▼あるいは気付いても、「そうではない語り方」は難しい。

2014-06-09 04:53:02
上山和樹 @ueyamakzk

(1)弱者を取材し、「自由に語らせ」ることで業績を上げる人たち。(2)自分を弱者ポジションに置いて、語りの態勢を固定する人たち。――この共犯関係が、ひどい暴力になっている。▼分析の場を作り直すことで言葉を作り直す、そういう作業を許さない語り方。《言う-聞く》の生産様式。

2014-06-09 04:59:12
Koji Hirose @parergon2

@parergon2 「私」「我々」と言わないのではなく、それが真理の体制に取り込まれないための隙間を導入すること。沈黙するのでもなく、その「隙間」から悪しき制度が生まれないように、命題以前の言語を挟み込み続けること。そこから再帰的に、かつて「主体」と呼ばれた広がりを創設すること

2014-06-09 02:14:37
上山和樹 @ueyamakzk

QT @parergon2 >《真理の体制に取り込まれないための隙間を導入すること。沈黙するのでもなく、その「隙間」から悪しき制度が生まれないように、命題以前の言語を挟み込み続けること》 これを読んで思い出したのは、ラボルド病院の歓待のあり方だ。

2014-06-09 05:04:52
上山和樹 @ueyamakzk

ラボルド病院では、「一斉ににっこり口を広げて微笑むということも可能なわけですが、そんなことは絶対にやりません。それは一つの命令というか、そんなことをすれば余計な反応を起こす可能性があるからなのです」(『医療環境を変える』p.33) bit.ly/QGYDm2

2014-06-09 05:08:16
上山和樹 @ueyamakzk

「無条件の全面受容」は、受け容れ側にとってもアリバイになり、受け容れ側の態勢(制度)は放置される。▼しかし先ほどの廣瀬浩司氏では、「隙間を導入する」「その隙間から悪しき制度が生まれないように、命題以前の言語を挟み込み続ける」――これは、歓待に向けた場所作りの作業であり、配慮だ。

2014-06-09 05:13:34
上山和樹 @ueyamakzk

「全面的に受け入れる」ことが、むしろ硬直した排除の態度であることに、ほとんど誰も気づいていない。▼生産されるべき「真理」の態勢が一つに決められているとは、そういうことでもあるはずだ。「何でも受け入れる」とは、同じ硬直した真理を確認し続ける作業。

2014-06-09 05:16:37
上山和樹 @ueyamakzk

(だから反論すると怒り出す――「何でも受け入れている」わけではない。そこにもすでに、制度が機能している)

2014-06-09 05:17:15
上山和樹 @ueyamakzk

QT @parergon2 >《そこから再帰的に、かつて「主体」と呼ばれた広がりを創設すること》 ここは良くわからなかった。――「主体」とか「主観」とか、その周辺にある名詞と動詞が、あまりに奇妙な状況にある。(フランス語とその関連訳語だけで、いくつもある)

2014-06-09 05:20:37
Koji Hirose @parergon2

@parergon2 芸術が「メディア」に吸収されることを嘆く必要は無い。それは「近代」の芸術に共通のことだから。メディアにはメディアというのも一つの弥縫策であろう。そこから一歩進んで、「自然」ー「人工」の対立を越えた新たな自然を再発明しなければ、行為の意味が価値として沈殿しない

2014-06-09 02:21:03
上山和樹 @ueyamakzk

QT @parergon2 >《「自然」ー「人工」の対立を越えた新たな自然を再発明しなければ、行為の意味が価値として沈殿しない》 「自然であること」の古いパターンと、「人工であること」の古いパターンが共犯関係にあって、そこに留まることが、苦痛をいや増す。

2014-06-09 05:38:20
上山和樹 @ueyamakzk

《そこから再帰的に、かつて「主体」と呼ばれた広がりを創設すること》――ここを「良くわからなかった」と書いたことに対して、廣瀬浩司 @parergon2 さんからお返事を頂きました。▼大事なヒントを頂いたので、引用しながら少し連投します。

2014-06-09 17:50:14
Koji Hirose @parergon2

@ueyamakzk 自然=人工的制度を逸脱する「意味」がなんらかの形で「記号」となるためには、それに立ち会う(個人的ないしは集合的な)「誰」が必要なのですが、その「誰」は、超越論的主体ではなく、「超越論的領野」として時空間的に開かれた広がり(と境界)を持っているということです。

2014-06-09 08:46:43
上山和樹 @ueyamakzk

QT @parergon2 >《[自然=人工的制度]を逸脱する「意味」 がなんらかの形で「記号」となるためには、 それに立ち会う(個人的ないしは集合的な)「誰」が必要なのですが、》 →ふつうは「自分」とか「主体」と言って終わる

2014-06-09 17:53:05
上山和樹 @ueyamakzk

QT @parergon2 >《その「誰」は、超越論的主体ではなく、 「超越論的領野」として時空間的に開かれた広がり(と境界)を持っている》 ▼名詞形当事者に基づいた「自分語り」← 超越論的主体(カント) ▼動詞形の「当事化」← 超越論的領野(ラボルド的?)

2014-06-09 17:59:17
上山和樹 @ueyamakzk

「超越論的主体」ではなく、「超越論的領野」と言えばいいのだ――こうした言葉づかいは、これまでにも廣瀬さんのご論考で読んでいたかも知れないのですが、今回初めて、《当事者/当事化》というモチーフとの関連で整理できたと感じました。

2014-06-09 18:06:02
上山和樹 @ueyamakzk

記号を、主体ではなく、領野との関係で語る。――これだと、「記号のあり方そのものがすでに支配的様式に従っている」という Guattari 的モチーフにも直結します。▼いま支配的な言説では、ここがさっぱり語られないがゆえに、《語る営み》それ自体の傾向が帯びる政治性に気付かれない。

2014-06-09 18:11:27
上山和樹 @ueyamakzk

語る営みについて、当事化的に――つまり、超越論的領野を開くあり方で、論じ直すことをしない。語りの態勢が固定され、調子に乗って「うれしがる」ような語りが蔓延している。▼傲慢きわまりない、語りの態勢の固定。

2014-06-09 18:14:32
Koji Hirose @parergon2

@ueyamakzk 個人であれ、それは匿名の「ひと」、あるいは、つねに自己更新し続ける「境界」としてあるのですが、それが記号生成に結びつくかは、いわば危険をおかして試みなければならず、いわば事後的にしか確認されない。「主体」はそこから派生するものにすぎない。。。と

2014-06-09 08:54:35
上山和樹 @ueyamakzk

QT @parergon2 >《それが記号生成に結びつくかは、いわば危険をおかして試みなければならず、いわば事後的にしか確認されない。》 名詞形「当事者」への居直りではなく、当事化という動詞(超越論的領野の支え抜き)を生きることの危険。能動でも受動でもない、倫理的な賭け。

2014-06-09 18:24:11
上山和樹 @ueyamakzk

QT @parergon2 >《「主体」はそこから派生するものにすぎない》 主体とは、超越論的領野の支え抜きとして、いわば分析の労働過程として維持される。その成否は、事後的に確認するしかない。(※ここに、「労働の社会化は事後的にしか確認できない」を持ってきてよいだろうか)

2014-06-09 18:28:42
Koji Hirose @parergon2

@ueyamakzk その「危険」を避けるためには、制度の隙間(自己との差異)を辛抱強く見きわめる「日常」と、それが悪しき制度にならないための(すべての制度はその危険を孕んでいます)、「即座」の反省的対応との両方が必要で、これがたえざる緊張の領野とみずからをなす試みを強います

2014-06-09 08:59:10
上山和樹 @ueyamakzk

これは臨床家の発言に見える。 QT @parergon2 >《その「危険」を避けるためには、 ▼制度の隙間(自己との差異)を辛抱強く見きわめる「日常」と、 ▼それが悪しき制度にならないための(すべての制度はその危険を孕んでいます)、「即座」の反省的対応との――両方が必要》

2014-06-09 18:32:05
上山和樹 @ueyamakzk

メタに理論武装してふんぞり返る臨床家ではなく、みずからが現場で超越論的領野を開いてみせる、その意味で《当事化》的な臨床家。(「当事者的」ではなく) ▼学術研究にこのスタンスがあるなら、それはまさに臨床実務的と言える。――研究・教育環境そのものに、超越論的領野を開けるかどうか。

2014-06-09 18:36:24