- ashibumi68
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QT @parergon2 >《これがたえざる緊張の領野とみずからをなす試みを強います 》 研究・教育の時間は、生活の時間と別の時間ではない。――こういう語りがあれば、「現象学〈と〉看護」などという、並列して相互にアリバイ作りをするような論じ方にはならないはず。
2014-06-09 18:40:01《現象学》がおのれの場に超越論的領野を開き、《看護》がおのれの場に超越論的領野を開き、そのうえでお互いが出会う――こういう語りでなければ、意味がない。▼哲学は看護で「実学」のアリバイを得(予算獲得)、看護は哲学で「高尚である」の承認を得る――これではしょうがない。
2014-06-09 18:44:43@ueyamakzk かつてはこの困難なこころみを支えてくれたのが「エクリチュール」と呼ばれていて、だからこそデリダはあんなに書き続けていたのだけど、みずからを際限なきエクリチュールとすることは、「大学的」脱構築論文の量産をも作り出してしまうことに彼は自覚的であったと思います。
2014-06-09 09:16:49@ueyamakzk しかし今は「エクリチュール」では通じない(Facebook/twitter世代のみ?)ので、別の装置の発明が必要でしょうね。だからこんなtwitterはすべて無駄だ、ゴミなんだ、と自覚していないとまずいとは思っております
2014-06-09 09:19:50QT @parergon2 >《別の装置の発明が必要》 私は行きがかり上、「当事者」という言葉に苦しむことになっていて、ひとまずそこで工夫する必要に迫られています。
2014-06-09 18:50:02QT @parergon2 >《こんなtwitterはすべて無駄だ》 この場がなければ、こうして大事なヒントも頂けなかったと思います。エクリチュールそのものというより、そこから介入や分析をどう起動できるか――そっちに注意しております。
2014-06-09 19:00:02いかにして、超越論的領野を開く活動を根付かせられるか、そういうことがやりやすい環境づくりができないか。――そのチャンスなり、ヒントなりの一環として。▼※お忙しい中、コメントを頂きありがとうございました。 @parergon2
2014-06-09 19:03:35廣瀬氏の、シュンボロン(真なるものの象徴=不気味な符合)についての議論は、まさにメルロ・ポンティ的な両義性を駆使しているようで、大変難解だ。どうやら、制度化の運動に生じた亀裂のうちに宿る真理を語ることの運命について論じているようだけど。twilog.org/parergon2/date…
2014-06-09 01:37:57真理を語ることは、自由をもたらす解放なのか、あるいは、亀裂の増殖という不透明な奇怪さと一体化し、しがらみと化した抑圧的な制度にさらに絡め取られることなのか。――いや、この2分法自体が多分間違いで、解放としがらみとの間の絡み合いのうちに、別の区別を導入していくしかないのだろう、多分
2014-06-09 01:42:30その別の区別というのは、欺瞞のうちにとどまるか/呪縛を引き受けるかということになるのかナ?――うーん、この言い方はあまりにも平板で、メルロ・ポンティ的ではないナ。
2014-06-09 01:44:56何というか、制度が安定して、そのうえでに胡坐をかくことができるのは、「ほころびの増殖としての奇怪さ」の上に当の制度が乗っているからなんだけど、その事実に目をつぶるのが欺瞞で、(続)
2014-06-09 01:47:38(承前)そうではなく、その奇怪さを自らで生きつつ、新しい真理が生成し、それを語ることによって、その奇怪さから何とか解放されようと模索するのが、呪縛を引き受けるということになるのかナ?
2014-06-09 01:49:23いずれにせよ廣瀬氏の後期フーコーの読み方は、そこにあからさまに後期メルロ・ポンティの、自然の自己展開としての制度化の運動という視点と、後期ハイデガーの、歴史と自然(存在)の狭間における/としての真理の生成という視点を持ち込んでくるので、色々なニュアンスを帯び過ぎてホント難しい。
2014-06-09 01:54:00確かに、抑圧的なものと化した制度からの解放をもたらした出来事(運動)をあとから擁護するというのは、この世で一番いかがわしい行為かもしれないナ。(続)
2014-06-09 02:02:08(承前)それは単に、解放や切断をもたらす出来事は常に一回限りで後から模倣できないからではなく、制度からの切断をもたらした解放を制度の中にいるまま擁護すると、制度の中にいながら、そうした解放を制度の中でどう実現するのかという、肝心の問題を見えなくさせることになるからだと思うんですヨ
2014-06-09 02:11:11廣瀬氏の議論の日をまたいだ続き。「超越論的領野として広がり」という言い方は、ハイデガーの「明るみ、森の間伐地」(Lichtung)という概念を(再)現象学化した感じですネ。学生時代に中途半端にE・Finkをかじった身としては気になる…twilog.org/parergon2/date…
2014-06-09 23:27:29特定の真理を特権化することなく、真理体制を系譜学的に分析するというフーコー的契機と、隙間から悪しき制度が生まれないように、命題以前の言語(言Wort)を差し挟み、主体以前の開け開けを創設・維持するというハイデガー的契機の関係って、果たしてどうなっているのだろう?
2014-06-09 23:34:30また、行為の意味が価値として沈殿するのを可能にする、自然・人工という対立を越えた新たな自然の発明と、事後的にしか成功したか否かが確認されないためにリスクが高すぎる、新たな記号生成のために危険を冒すこととの間の関係も。なんか前者は解釈学的で、後者はマルクス主義的態度のような気がスル
2014-06-09 23:40:16廣瀬氏的には、危険を冒すことを避け、制度の隙間を見極めようとする辛抱強さと、隙間が見つかったら即座に対応できるセンスを重視してるようだけど、正直言ってこういうのは、鷲田清一・内田樹的な、道を極めようとする達人倫理の勧めとあまり変わらないような気がして、正直言ってチト苦手デス。
2014-06-09 23:44:48自分としては危険をどう避けるかよりも、危険を冒して取り返しがつかなくなってしまった後の事後処理をどうするか、という発想の方がリアリティがありますネ。
2014-06-09 23:51:42