- yoshihirohorii
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@naohikohino とりあえず良かった。私は実は、アイゼンマンのことは、これまでもずっと、コールハースとの絶妙な関係においてだけ興味を持っていました。が、それが強化された感じがした!
2014-06-11 00:41:37@jiricom 最近読んだアイゼンマンが誰かに付いてのコメントっていつもこの手のお小言ですよ。でもまぁ一貫してるのすごいですね。
2014-06-11 00:41:45@naohikohino このインタビューで(少なくともこのインタビュー記事で)、アイゼンマンが、文法のことから話し始める下りは痺れるね。
2014-06-11 00:45:25@naohikohino そして彼が自分の学生時代の記憶と重ねる部分は、まるで、すでにエスタブリッシュされた伊東豊雄がどっかのインタビューで「いま学生だったら誰の事務所に行く?」と聞かれて妹島和世の事務所って答える場面に、表面上はそっくりなのに、意味がまるで違う点も素晴らしい!
2014-06-11 00:46:01私の読後感と大分ちがう会話がなされてるな → twitter.com/naohikohino/st… やっぱ私は全く英文が理解できてないのかも(笑)
2014-06-11 00:51:52それこそ、アイゼンマン周辺(というかロウの周辺)で、よく言われる denotation と connotation の関係、みたいなことを思ったよ。文字になったことが意味(のすべて)だとは全く思えないな。
2014-06-11 01:04:51@naohikohino 文法を重視する(書物時代の)アイゼンマン vs 語彙を重視する(ウェブ時代の)コールハース、みたいな読み方もできるワケですよ。どっちがより建築か、っていうのは置いといて。
2014-06-11 01:06:30@yoshihirohorii まぁでもアイゼンマンがいう文法って、マニエリスムのファサードとモダニズムのファサード見比べてまったく同じだと見るような、そういう文法ですからね。アイゼンマンはもうちょいデカいものを背負ってるんじゃないですか。
2014-06-11 01:09:33@yoshihirohorii 他方でレムが背負っているものも、近代の上澄みみたいなエステティックでない、世俗的広範さがあるわけだけど。
2014-06-11 01:09:56@naohikohino それを「デカい」と言うのは自由だけど、そう言うこと自体がすでに一つのスタイルなんだな、と私なんかは思いますね。
2014-06-11 01:17:23@yoshihirohorii まぁ僕が言った意味は単純な意味でのタイムスパンの長さですけどね。それを賭け金としてアイゼンマンは回帰すると自信を持って言うわけで。
2014-06-11 01:18:58@naohikohino まぁ私の英文読解力は、自分でも信用できないんで、あんな会話文ですらどうかって感じです。落ち着いたらもう一回くらいは読んでみることにします。とりあえず、これまでに私が触れたアイゼンマンが書いた(話した)文章の中で、最もヴィヴィッドに(私に)訴えて来ました。
2014-06-11 01:21:42"Modernism is a long-ago aesthetic movement that some of us may have sympathy for but which none of us are really engaged with." Rem ここ詳しく笑
2014-06-11 01:22:20@yoshihirohorii そうすか?僕は結構延長だと思ってるので...てか越えられてないとすら思う時があります。まあ規模の問題があるかもしれませんが。
2014-06-11 01:28:26出会いは「必ず」失敗するはずなんだけどねぇ。。 前にも書いたと思うけど「マルホランド・ドライブ (2001)」のオーディションのシーンほど、この「失敗した出会い」を「正確に」描いたものを見たことがない。
2014-06-11 01:29:20さっきの↓ Venice architecture biennale preview tour with Rem Koolhaas goo.gl/7bf4Pw
2014-06-11 01:31:01@yoshihirohorii 空間の捉え方の問題です。ドミノがつくられているらしいですが、ある意味象徴的のような気がしますが。
2014-06-11 01:35:04@naohikohino 68年を契機に? なんか地続き感が強いのですが、なにをもってとどめを刺されたのかがわかりづらく...
2014-06-11 01:41:30@ken691101 バンハムは、コルビュジェにしろミースにしろ理論的には古典的立場に後退し、近代に開かれたラディカルな可能性に向かったのはむしろ後のフラーとかじゃん、と言うわけだけど、その意味で古典的なモダニズムにもはや我々はengageしてない、ということじゃないかと。
2014-06-11 01:49:15