価値と甲斐(途中)
- L_O_Nihilum
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たぶんここでは、作るものがレディメイドかどうかなんてどうでもいいところまで来ているんだと思う…創作する、と此処で言ってる時、すでにそれらは自分の世界に迎え入れられている。無意味であったはずの自存在が、多彩な意味に触れるうちに、自分のなかで意味を作れるようになってくることへの感動。
2014-07-15 21:33:07@kou11lunatic 服が人を着て歩く!道具存在と現存在の逆転!!付喪神が暴れてるのか!そりゃ心綺楼も起きるわけだ!
2014-07-15 21:35:14おそらくだがハイデガーの「哲学は概念の感動からスタートする」というのも、実はハイデガーが言ってるところの道具存在に対する現存在、的な無意味性が逆転したところの瞬間の話ではないかなあ。つまり、その意味が、自分の中に入ってきて、使える瞬間が来て、感動する。
2014-07-15 21:37:24「自分が道具連関づけた言葉を使っているように見えて、じつはそれは自分のことばになっている」。よくよく、デリダまでもが「言葉を制御しているようでそれ自身が生きているようにこっちにやってきた」っていう事を言ったりするが、僕は逆もありなん、だと思う。じゃなきゃ感動はしないだろう。
2014-07-15 21:38:20@L_O_Nihilum 逆ってそもそも異界のシンボルだからねwだから、鬼みたいな超自然的な存在を封じる場合は、異界を象徴させるために逆さに貼るわけでしょ?正位置なら封印する余地がないものねw
2014-07-15 21:39:13そう、だからまさに哲学をすること、に「遣り甲斐」を感じたんだよ、ハイデガー。 その時、言葉も活きていたし、活かしたハイデガーもイカしてた(笑)。 そうしたとき、「気分」たる甲斐存在は行為のなかなのか、自己のなかなのか。
2014-07-15 21:39:38「内的」と言った場合は、自己のなかになる。 この場合、自分自身が意味があって、外部はその自分という意味のための無意味な空間になるだろう。ただ、その場合、自分の意味に参照できない場合は、その対象はいつまでたっても利用も思考も出来ない代物になる。
2014-07-15 21:40:59外部に存在するあらゆるものが、UFOみたいな未確認物体になってしまう。 こうした状態は「頽落」「不安」に対して、「Ansich」と呼んでみる。
2014-07-15 21:41:34@kou11lunatic 小学生並の感想で現存在がどうとか服が人を着るとかいう話が出るのかwwwwませた小学生だなあww(脱構築)
2014-07-15 21:42:11逆にハイデガーの伝統に従って、「甲斐」を道具存在のお蔭とするなら、それは行為の中に存在するだろう。全く行動しない事もまた含めて、行為である。 道具連関づけた相手を使っている間に自己の存在も暴露してる状態が甲斐であるから、自己の外部にその存在がある。
2014-07-15 21:43:48事態が存在を呼んでくる。そういういみでも、行為をしはじめてから、はじめて向こうからやってくる、という文字通りの現存在の揮発だったりする。 このとき、自身におそれはない。寧ろ自己を外部に意味づけ、自身が無意味化することを、恐れず行ってる状態だ。
2014-07-15 21:45:06つまり自身さえ道具なんだよね。太鼓叩いてて生き甲斐を感じている、ってことは、叩いている自分が好きになっている。「好きになる」自分は、自分によって意味連関づけられた存在であって、好きになろうとしてる自分からさえ分裂している。というか、こうやってどんどん自分をみじん切りする。ドM。
2014-07-15 21:46:06どんどん自分が道具の側にある意味連関のほうに持ってかれて、道具に導かれるように太鼓をたたく。太鼓も存在を暴露するし、自身も存在を暴露する。無意味化していく世界そのものがその現存在にとって「身近」なものになる。こういう状況になる。
2014-07-15 21:47:10そーすると、つまり自身は極限まで意味‐化された世界のほうに持ってかれちゃってるので、何と驚くことに、自身が其れを表現する言葉をもたなくなる。というか、今自分が持ってる言葉で、その甲斐の感激を表現できなくなるんだよね。世界の側の意味に、それが連れ去られてるから。
2014-07-15 21:48:11「連れ去られてる」と言ったけど、これまさにドゥルーズ風の「取りさらわれる」様子だよね。自身をみじん切りしまくってどんどんリゾームに錯綜拡散させまくってその様子がめっちゃ面白くて言葉にできねえ、って状態。意味連関に連れ去られると、却って意味ある言葉からその気持ちを探せなくなるんだよ
2014-07-15 21:49:21@L_O_Nihilum 何を消費するか?ではなくてどう消費するか?この差でしょうかね。絵画を素通りするようにさっとどこかへ行ってしまう見方と、立ち止まったり、視る場所を変えてみるやり方。あるいは、ある作品をくだらないと一蹴するのか?それに人生を掛けちゃうのか?こういう強度の差
2014-07-15 21:50:04タイクツしてる時のほうがまだ言葉がある。甲斐があるときは言葉がなくなるの。 「ことばにできない感激」の正体はこれだったり、と言えなくもない。自身が存在を暴露され、世界のなかの存在と一体化してて、本当に無意味になる。無意味そのものになってる自己が語る言葉を失ってるの。いい意味で。
2014-07-15 21:50:27んじゃあ、このハイデガーのような存在論的な「甲斐」は、悉若無のような「内的」で回収できるのかなあ?というか、寧ろ僕から見ると、これは逆に不思議に見えるはずじゃないのか?自身の体験なのに自身のなかにその表現語がないって、ちょっとおかしくね?やばくね?って見えるはずなんだが?
2014-07-15 21:51:32@kou11lunatic 「消費」という言葉でそれがもし扱いきれなくなれば、「享受」になるね。「道消費」自体も「何消費」の種類別に回収してるのが所謂読者論、消費論だから、其れで扱えない領域として「甲斐領域」を示す必要が出てくるんだな。
2014-07-15 21:52:45@kou11lunatic そこでいうとこの「立ち止まったり、視る場所を変えてみる」等々の諸々の態度の変更が、興味深い。どうやったらそういう気持ちになれる契機が手に入るか?あるいは、それがあると信じるしかない領域から、その挑戦が始まるのか。挑戦の才能は人を選ぶかどうか。
2014-07-15 21:53:47@L_O_Nihilum 妙なスローガンではあるけど、「何を消費するかではなく、いかにして楽しむか」というスローガンを思いつきましたw
2014-07-15 21:55:37ちなみにそうなってるときにこれらを全部「体験」てかたちで、内外未分化(主客の未分化でもよし)とすると、ショーペンハウアーの純粋主観とか西田幾多郎の純粋経験になる。純粋経験のなかでは、その経験の為の言葉しか出てこないんで、その体験は十全に語れる言葉が出来うることに。
2014-07-15 21:55:41