上杉謙信及び長尾家の統治、それにかかる志向について
謙信の統治についてだけど、成立からして地政的にも歴史的にも通常の戦国大名制を志向できる政権じゃなかったんだから、他の方法論を取るのは妥当だろう
2010-02-26 23:42:08為景は戦国大名の目指した典型だろうけど、揚北は武力制圧が可能な連中じゃない上、在地支配を外部からとやかく言われる筋合なんか感じる必要のない伝統領主だから、並の権威に屈したりはしない
2010-02-26 23:46:20上杉一族の上條が彼らを頼ってともに手を携えて反乱するんだから、専制君主の態度で短期的に従わせることなど出来ない。長尾が幕府や朝廷との結びつきに依存することになるのも当然
2010-02-26 23:52:14そもそも、"通常の戦国大名"と言われる中央集権体制が幻想に近いと思う。 QT: @NiseGunshi: 謙信の統治についてだけど、成立からして地政的にも歴史的にも通常の戦国大名制を志向できる政権じゃなかったんだから、他の方法論を取るのは妥当だろう
2010-02-27 00:00:53こういうところから段階的に見ていかないと何もわからんのかも知らん。だいたい中央から独立して国を作るのが戦国大名としたら、謙信は中央と結びついて地域を預かる立場を選んでるんだから、ちょっと異質ということになる
2010-02-27 00:01:37国人衆連合であるとはいえ、越後に他勢力の入り込むすきをなくした一円支配を確立していた点でやはり長尾氏は戦国大名と定義することができるだろうと思う。 尤も、長尾氏の詳細な統治体制については詳しくないので、どの程度の中央集権化を達成していたかを詳しくは述べられないが。
2010-02-27 00:02:55ただ、為景死後の混乱や謙信統治下での国人対立、謙信死後の御館の乱を見る限りは、家臣の脱国人化≒地縁の断絶には失敗していると考えた方が良さそうだとは思っている。
2010-02-27 00:04:23長尾氏が幕府や朝廷の結びつきに依存した、というが実際はそこまで依存していないだろうと思う。越後守護・関東管領を為景が殺している時点で完全に幕府や朝廷からは独立した一円支配を可能とするだけの実力を長尾氏が力を握っていたと考えるべきではないだろうか。
2010-02-27 00:06:05独立国を目指してない(目指せない)んだから、分国法も作らないし、公儀が許容しない武力行使もしない、国人の領土に直接介入しない。これは謙信個人の統治能力の欠如とかじゃなく、そういう方針なんだから仕方ない
2010-02-27 00:08:09@shima_ko しかし守護大名というレベルは凌駕していたというように思われます。越中への出兵等を考えるに、確かに強力ではないにせよ、幕府や朝廷に"依存"して統治、という次元は超えているかと。彼の浮沈が激しいのは、国人連合を組織でなく軍事力で纏めたにすぎないからかもしれません。
2010-02-27 00:12:42@shi_qie ああ、そういう意味でなら自立した勢力だったと思います。ただ、戦略的に中央政権と離れた部分で動ける性質だったかというと、ちと怪しい
2010-02-27 00:14:04@shi_qie 言葉が足りませんでしたが、外観的には長尾上杉は立派な戦国大名なんですけれど、方法論としては今川や武田がそうしたように、中央などの権威から距離を置くことで、室町幕府の守護が家臣や領地を私有化する道を取れなかったとみています
2010-02-27 00:14:15@shima_ko 確かに朝廷や幕府の権威を利用してはいます。権威という点で中央と離れることは不可能だったでしょうが、それも彼が実力を持っているからこそではないでしょうかね。 実効支配をしている上で、その追認と維持のための権威付けが欲しかった、と。
2010-02-27 00:16:53@shi_qie 守護や関東の上杉を為景が殺したのは長尾の意思ではないんじやないかな。反上杉の流れにたまたま長尾がいたのと、たまたま討ち取りに至っただけで。もし長尾が上杉を打倒を企画して見事これを果たしたのならおっしゃる通りとは思いますが
2010-02-27 00:18:41@shi_qie 一応整理しておきたいのですが、実力を発揮したいうのと、実際にどれだけの地力を保有していたかというのとでは、かなり差があると思うんですね。その疑問が現在までの私のリプライの理由
2010-02-27 00:22:22管領を倒したのは事実にせよ、その管領が越後に関わるに当たって政治的な関係は揺れ動いていて、長尾家がその中で一定以上の役割を果たしたことを、あまり大きく捉えてはならないのではないか、というお話
2010-02-27 00:24:05よく為景が両上杉を殺害したと言われるけれど、為景が積極的にこれを主導したわけではなさそうなんだよね。守護殺害は為景二十歳前のことで、しかも父の不慮の死により家督をついだばかり。確かな権力があったから守護を殺せたわけではないと思う
2010-02-27 00:25:56@NiseGunshi 私は東国戦国大名は専門ではないのですが、今川氏や武田氏もまた決して中央の権威から距離を置くことはできず、長尾同様の体制であったと思います。つまり、家臣の国人性を奪うことはできなかった、と思ってるのです。そこは、侵入時に家臣が裏切っていくことから伺えます。
2010-02-27 00:29:45関東管領殺害に至っては完全な防衛戦争で、為景は国内の領主の多くに見限られて他国に逃げている。その後、越後の大半が管領の支配に反発した結果、為景側の高梨が討ち取ったに過ぎない
2010-02-27 00:29:58もちろん、長尾氏の拡大の根本には国人衆の結合があり、その根本には越後社会の地域結合の要求があったのだと思う。 が、長尾氏はやはり直江津や上越を抑えた有力な領主であって、国人衆を取りまとめるだけの力があったのではないか。
2010-02-27 00:33:38@shi_qie それも外観的には同意なのですが、あくまで方法がちがったという話です。例えば現代の中国とアメリカは表面的には近代国家として共通する部分が多いでしょうけど、政治の根本理念は大きく違うように
2010-02-27 00:35:28@shi_qie @NiseGunshi 統治のための姿勢と、実際にどの範囲まで、どの程度まで統治していたか、できていたかという話が、ごっちゃになってる気がするのですが
2010-02-27 00:37:16