みんみんぜみ@inuchochin さんによる柔術史

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みんみんぜみ @inuchochin

『戦国時代の武術は殺し業。」とかいう一般的なイメージと違って『捕手』は戦国の技、と書かれている事もあるくらい古い技術。当然戦国時代でも、敵の使者なんかを捕縛する必要はあるだろうし、間者を生け捕りにするとか殺すより捕縛のほうがずっと武術として意味がある技なわけで。しかも当時の捕手は

2014-09-29 16:39:05
みんみんぜみ @inuchochin

しかも当時の捕手は『逮捕術』のイメージと違って当身技を多用するものだったらしい。逆手、関節技で華麗に取り押さえるというのは近代柔術のイメージで、やはり戦国時代の捕手は初期の技術だけあって実用性があり、人権意識も少ないだろうからか荒っぽいものだったらしい。

2014-09-29 16:40:44
みんみんぜみ @inuchochin

室町・戦国時代に簡便な捕手・捕縛技術がある程度発展して、そこで捕手・小具足腰廻を1532年頃に大成したのが竹内久盛なんじゃないだろか。竹内流の初期の技法は小具足二十五手・捕手五手と手数も少ないし、おそらく有用な技術を取りまとめ工夫した感じなんじゃないかと想像します。

2014-09-29 16:44:25
みんみんぜみ @inuchochin

柔術の源流とされる「戦場組討」、これも戦国時代にいったいどこまで体系化されていたかなぞです。起倒流の開祖たちが『相撲』の名手とされているところから見て、おそらく伝統的な相撲(土俵が無かった?)もので鍛錬して、あとは心得程度のものだったんじゃないかと想像します。

2014-09-29 16:54:38
みんみんぜみ @inuchochin

ただ、小具足腰廻も別名『組討』というようですし、小具足の技術にある、短刀を持った手を押さえられたのを外す各種のテクニックは戦場組討でも使われていたものでしょうし、関連はありそうな気もします。

2014-09-29 16:56:22
みんみんぜみ @inuchochin

江戸時代になると、柳生石舟斎・柳生宗矩の門下から相撲の名手福野氏らが良移心当流や起倒流といわれる流派を創始します。これも江戸初期(1620年代?)に陳ゲンピンに福野ら三人の浪人が学んで柔術を創始した、といまでも言われることがありますが、

2014-09-29 16:59:33
みんみんぜみ @inuchochin

福野の良移心当流和の伝書内容は陳ゲンピンにあった前後で何も変わっていないので、参考にした程度と思われます。(しかも古い記録では陳から拳法か何かを習ったのではなく、陳が「人を捕る技」について語ったのを聞いたと書いているだけです)

2014-09-29 17:01:29
みんみんぜみ @inuchochin

福野の良移心当流の伝書は柳生十兵衛が著書に引用しているのでよく知られていますが、体・請身の二つを基本にしたシンプルな体系だったような感じです。この流派から発展した起倒流も初期は表裏の十数本程度だったようで、現在伝わる起倒流・柔道古式の形・直信流の形を見ても

2014-09-29 17:04:30
みんみんぜみ @inuchochin

起倒流系の古い技はシンプルで、まとめてしまえば「捨身投」と 「膝を付いて後ろへ倒す技」の二つしかありません。これまた古流柔術のイメージからはかけ離れていますが、これが古い柔術の姿の一つだと思います。

2014-09-29 17:07:00
みんみんぜみ @inuchochin

で、『柔術』の起源ですが、起倒流の伝書や尾張の武術関係の資料等によれば、江戸時代も安定してきた頃、力の必要な従来の組討に対して、力ではないもので勝つ技術という意味で『ヤワラ』と名乗ったようです。小具足・捕手・組討というふるい名称に対して『拳法』『和』『柔』という名称が現れました。

2014-09-29 17:09:57
みんみんぜみ @inuchochin

『拳法』『和』『柔』『イ和』などという名称はいずれも『ヤワラ』と読んだようで、これは明治頃まで一般的にそのように読まれていたようです。

2014-09-29 17:10:55

注 俰(イ和)で一字です

みんみんぜみ @inuchochin

で、江戸初期に現れ、その後隆盛した起倒流以外の柔術流派も関口新心流(1630頃開流?)、制剛流(1600年代半ば開流?)、楊心流(実質的な開祖が1660年代に活躍)で、同じく江戸初期に現れています。

2014-09-29 17:15:31
みんみんぜみ @inuchochin

関口新心流は柔術、制剛流は(イ和)、楊心流も柔術と名乗っていました。このうち関口流と制剛流は流派の体系として関口流と制剛流は小具足と捕手を持っています。特に制剛流は最初に捕手を学び、それに対する技をその後習う、という感じの体系になっていたようです。

2014-09-29 17:18:18
みんみんぜみ @inuchochin

制剛流は浅山一伝流・難波一ぽ流・竹内流の三流儀に開祖が創始した制剛流を加えたもので、開祖の頃は四つの流儀を教えていたようです。それを二代目で実質的な開祖の梶原直景が捕手・小具足・イ和羽手という体系にまとめ、最初に捕手(これは他流の技とか)を学び、それに対するヤワラの技を教えた

2014-09-29 17:21:03
みんみんぜみ @inuchochin

とかいう話もあります。ここでもヤワラはそれまでの流儀の一つ上の武術として考えていたみたいです。関口流の場合はよくわかりませんが、開祖は「柔らかな力の使い方」を発見し、それによって流派を創始したそうですから、やはりそれまでの体術とは違う、という意識があったんじゃないかと思います。

2014-09-29 17:22:49
みんみんぜみ @inuchochin

楊心流はこれらの流派とちょっと違い、長崎で異人から医術を学んだ人が急所についての知識を加えて創始した、柳の動きから開眼した、とかいろいろ言われています。ただ、どうも初代の医者というのは実在が怪しく、実質的には二代目の肥前の人・大江専兵衛が開祖ではないかといわれています。

2014-09-29 17:25:51
みんみんぜみ @inuchochin

楊心流は関口・制剛と違い、明確に小具足・捕手・ヤワラというような技法分類はなく、古い表の技は互いに帯刀した座敷での捕手術だったようです。ただそれまでの流派と違い、急所についての詳細な知識や締め技と高度な活法・整法を伝承しました。また、その技術も古い捕手と違い、

2014-09-29 17:28:48
みんみんぜみ @inuchochin

締め技や逆手を併用した、高度な捕縛技術を編み出したようです。締め落としても活法で生き返らせる、という事が出来たことから、『柔術の達人は活殺自在』、というイメージはこの流派が生み出したようです。起倒流などは楊心流の活殺自在に対して「本当に殺したら生き返らせる事なんか出来ない」と

2014-09-29 17:30:42
みんみんぜみ @inuchochin

伝書で批判していたりします(笑)

2014-09-29 17:30:59
みんみんぜみ @inuchochin

まとめると、 ・室町・戦国時代 捕手(生け捕る技術)や小具足腰廻(主に短刀を使った格闘技術)の流派が生み出された。 ・江戸時代初期 それまでの力ずくの組討・捕縛技に対して「力ではない高度な技術」としてヤワラ(柔・和・拳法)が現れた。また医術を取り入れ活殺自在の技法が出現。

2014-09-29 17:34:03

横田剣太郎 @kentarou_yokota

@inuchochin 捕手小具足が「力ずく」にはちょっと異論あり。あと、当身も単なる打撃ではないです。そこんとこヨロシクゥ。

2014-09-30 00:50:13
みんみんぜみ @inuchochin

@kentarou_yokota そのあたりの事は突っ込まれると思いつつ書き忘れました。すみません。要は後の「ヤワラ」流派の宣伝文句なんですけどね(^^;;

2014-09-30 03:48:47
横田剣太郎 @kentarou_yokota

@inuchochin まあ力ずくの人も居たとは思いますが(笑)力が無い私なんかだとキチンと形が出来ていないと全く崩せませんし反撃されます。流祖は体力も筋力も今の私達よりはあったと思いますが、力が上の人は沢山いたと思われます。そういう中で力に頼らずに勝ちを得る技術だという事で。

2014-09-30 07:44:18
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