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JO_JO_t_kaoru
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香港のデモを観て思う事は、権威主義体制(目的が権威拡大)に対する民主主義の主張は、どうしても闘争になるという事。 なぜなら権威主義(目的:権威拡大)が目的未達成として目に映ると、他のチカラに潰されるというカタチに写ってしまう。
2014-10-02 14:56:27![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
『法の支配、自由、民主主義制度』体制は歴史的変遷を経て、そのカタチになっている。その体制の中での議論というのは、問題提起と覚悟ありきの前進する方法の模索とそして前進の決断であり、そこに基本的に、暴力を伴う決断は選ばれない。
2014-10-02 16:27:31![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
それは歴史を経て、得た経験から出せるセンスの結果である。 しかし、仮にもその体制に権威主義体制の意思(権威拡大)が入り込んだら、我々『法の支配、自由、民主主義制度』体制における議論の見え方は変わる。いやむしろ『その見え方』がむりやり、暴力的に入り込んだとしか言いようがない。
2014-10-02 16:29:54![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
なぜなら、権威主義(権威拡大)において暴力を使用する輩であるならば、我々『法の支配、自由、民主主義制度』体制側の対置は、権威主義への反旗というカタチになり、それはチカラの闘争にならざる得なくなる。
2014-10-02 16:31:37![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
我々体制側だけの、歴史を踏襲してセンスを受け継いだ体制側だけの議論や意見ならば見え方が違うが、 権威主義体制と我々『法の支配、自由、民主主義制度』体制側の対置はどうしても チカラの闘争になる。そしてその段階に持っていっているのは、明らかに 権威主義体制側なのだ。
2014-10-02 16:33:12![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
権威主義体制というデザインが、我々『法の支配、自由、民主主義制度』体制側の、歴史を踏襲して、受け継いできたセンスを活かす、我々体制に、そのデザインによりチカラを齎すわけだ。
2014-10-02 16:34:27![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
そして権威主義体制からの都合は、いや目的は『権威拡大』でしかない、故に、、、そのカタチが暴力でなくても、そこにはタイミングを観て、我々『法の支配、自由、民主主義制度』体制側を寝首を斯こうとうかがっている魂胆があるし、そこにチカラを注がれては、我々は攻撃される故に、チカラを
2014-10-02 16:38:52![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
与えてはならないのだ。チカラを削がねばならないのだ。それは我々『法の支配、自由、民主主義制度』から得られる『人権の保障』それは自衛の保障であり、自衛の権利を得ることにもある。
2014-10-02 16:39:54