カント『プロレゴーメナ』の英文要約がなされている英語版ウィキペディアを意訳し、岩波文庫版とEarly Modern Philosophy(英語の意訳版)などの内容から補足も加える。

カントの『プロレゴーメナ』を日本語訳と英語訳と共に読み進めている。英語版のウィキペディアではわかりやすい要約がなされており、読めば理解を促される。それを岩波文庫の日本語訳とEary Modern Phillosophyの英訳の内容で補足しつつ、わかりやすい日本語になるように意訳していきます。 Wikipediaの翻訳部分は太く強調してます。 ソース: 続きを読む
1
福田陽二郎 @perceptualreco

(続き)「質料」 というものの内容や素材、材料的なものと、「形式」という質料と分離して考える抽象的なもので考えてみると、経験的直観は質料と形式の両者があって経験できるものである。一方の純粋直観は形式だけで成り立つものである。

2016-09-06 23:07:19
福田陽二郎 @perceptualreco

(続き)簡単に二つの直観の違いをまとめると、経験的直観は経験つまり感性を介しての動作があって成り立つものである(質料と形式)。純粋直観は経験によらな い、つまり外的要素と関連しないもともとあるものにより成り立つ(形式)。このような点で、前者とは異なる。

2016-09-06 23:09:26
福田陽二郎 @perceptualreco

(続き)そして経験的直観は純粋直観が前提として成るものである。

2016-09-06 23:09:53
福田陽二郎 @perceptualreco

(EMTからの意訳)直観とは何か。カントは直観という言葉を独自に用いている。一般的に、直観による理解は論証を通した理解と対比される。理屈抜きに何かを直接知ったり印象を抱いだりすることが直観による理解であり、概念的な説明を通したものが論証による理解である。

2017-03-26 11:28:46
福田陽二郎 @perceptualreco

(続き)カントによれば感覚に由来しない直観もある。カントはそれを純粋あるいはアプリオリな直観と呼ぶ。5本の指を使って計算を行うのは、指を見て感じる感性的直観:sensible intuitionである。カントによれば純粋直観に基づく純粋数学が存在する。

2017-03-26 11:30:17
福田陽二郎 @perceptualreco

(続き)例えば幾何学者が円の様々な特徴を導きだす時、円という抽象的な概念を分析することだけを行うのではない。一つの円に対する純粋直観を通して全ての円に通じる特徴を見出している。これは何らかの円を想像する行為でもあるのだが、ただ単に感覚的に円を複製することではない。

2016-09-06 23:16:58
福田陽二郎 @perceptualreco

(続き)円形のものを見れば、外部から来る感覚的刺激によって精神の様々な側面が発動される。一方で知性によって様々に発動されるものもある。この場合の知性とは、例えば概念的に物事を把握する能力のことである。

2016-09-06 23:18:11
福田陽二郎 @perceptualreco

(続き)もし全ての知性を取り除いたとしたら、残るものは円を円の形をしたものだと見るだけの抽象的な直観だけである。つまり残るのは円の空間的あるいは幾何学的な特徴だけとなる。どのような形の円を見てもそれは同じであり、全ての知性を取り除かれた直観はそのように円を捉える。

2016-09-06 23:22:07
福田陽二郎 @perceptualreco

(続き)これがカントの言う円の「純粋直観」である。カントによれば、純粋直観は外部からの感覚的刺激によって成されるものではなく、精神によって引き起こされる精神状態のことである。(私による付記:精神が感覚に「このような形で刺激を受けよ」という枠組みを与える、といったことなのだろう。)

2016-09-06 23:24:41
福田陽二郎 @perceptualreco

(続き)人間は外側の世界を空間として経験するように作られているのであり、外側の世界に空間があるのではない。外側世界への直観が空間として現れるようにしているのは人間である。純粋直観の中で表象されるものは感覚の形式(form)あるいは感性的直観の形式のことである。

2016-09-06 23:27:38
福田陽二郎 @perceptualreco

(続き)カントは言う。幾何学者が円についての総合的な真実を築きあげるためには、円という概念だけでなく、円の純粋直観も含まれていなければならないと。この純粋直観によって概念が明解に示されるようになり、具体的に典型化することができる。

2016-09-06 23:30:24
福田陽二郎 @perceptualreco

(続き)こうして幾何学者は円を概念的に考えるだけでなく、感覚を経由しない抽象的な円の有り様を考えることができるようになる。

2016-09-06 23:32:12
福田陽二郎 @perceptualreco

(続き)出来事に関する全ての経験と概念を取り除かれると、残されたものは時間という純粋直観だけである。空間が外側世界を経験する際の感覚の形式であるように、カントによれば時間は外側世界の関係性と精神内の履歴の流れが現れる際の感覚の形式である。

2016-09-06 23:49:54
福田陽二郎 @perceptualreco

(続き)出来事に関する全ての経験と概念を取り除かれると、残されたものは時間という純粋直観だけである。空間が外側世界を経験する際の感覚の形式であるように、カントによれば時間は外側世界の関係性と精神内の履歴の流れが現れる際の感覚の形式である。

2016-09-06 23:49:54
福田陽二郎 @perceptualreco

(続き)幾何学が空間あるいは空間としての図形についての純粋直観を元にして作れていくように、カントによれば計算も時間についての純粋直観を元にして進められていく。

2016-09-06 23:33:10
福田陽二郎 @perceptualreco

3. 形而上学における判断は全て総合的判断であるen.wikipedia.org/wiki/Prolegome…

2015-09-10 23:09:11
福田陽二郎 @perceptualreco

形而上学が用いる概念および判断は総合的なものだけではない。分析的なものを用いることもある。分析的な概念と判断それ自体は形而上学の目的ではない。しかし、アプリオリで総合的な形而上学的判断をする上で用いられることがある。

2015-09-10 23:15:54
福田陽二郎 @perceptualreco

一例を挙げる。「実体は主語としてのみ実在する」という分析的判断は、「全ての実在は永遠である」という総合的かつ正しく形而上学的な判断を形成するために活用することができる。

2016-09-07 21:35:04
福田陽二郎 @perceptualreco

§ 3. 分析的判断と総合的判断の一般的区別についての付記 この区別は非常に大事である。しかし私(カント)より前の哲学者達はこのことを明確には理解していなかった。 補足:この哲学者達とはロックやヒューム、ヴォルフのことである。en.wikipedia.org/wiki/Prolegome…

2015-09-11 23:24:51
福田陽二郎 @perceptualreco

補記:総合的判断とは何か。単に概念を分析するだけでは導けない判断のことである。カントによれば数学的概念は総合的である。例えば直線という概念をいくら分析しても、「2点を結ぶ直線は最短距離である」という概念は出てこない。直観を必要とする。また、経験に基づく判断は常に総合的判断である。

2015-09-11 23:44:23
福田陽二郎 @perceptualreco

§ 4.はたして形而上学は可能なのかen.wikipedia.org/wiki/Prolegome… 『純粋理性批判』はこの問いかけを総合的判断に基づいて探求した。純粋理性の源泉となる諸概念を抽象的に検証した結果、形而上学は科学的知識として確立したのである。

2016-09-09 22:57:53
福田陽二郎 @perceptualreco

(続き)一方で本書『プロレゴーメナ』においては、総合的判断に基づくアプリオリな形而上学的知識、すなわち純粋数学と純粋自然科学を取り扱うことからスタートする。この知識に依拠しつつ、分析的判断に基づき、形而上学を可能とする源にたどり着くのである。

2016-09-09 22:58:25
福田陽二郎 @perceptualreco

§ 5 純粋理性はどのように認識を可能とするのか?en.wikipedia.org/wiki/Prolegome…

2015-09-13 19:50:44
福田陽二郎 @perceptualreco

この問いに答えるために分析的方法を採用する。ただし分析的方法とはこれまでに述べてきた分析的判断を意味しない。

2015-09-13 19:39:36
福田陽二郎 @perceptualreco

(続き)「すでに根拠の与えられているものから出発して原理に向かって進む」あるいは「まず最初に、あるものが正しく根拠が与えられていると仮定する。その上で、その仮定を実際に可能とする唯一の条件へとさかのぼる」手法のことである(岩波文庫版55〜56ページ)。(補足:今の議論では前者)

2015-09-13 19:40:29