- misonikomioden
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な「2010年以降については最近過ぎて触れていない。中国経済成長、リーマン以前の景気感などあるかなあ、と思うが書ききれないままおわった
2014-12-06 19:51:42く「中ザワが反芸術であることが払拭できない。熱い前衛は時代の要請がありそれに感化されでてくる。反芸術は熱い奴らが出てきたから反動がでてくる。参照項が美術に閉じる。前衛は社会など参照項が出てくる
2014-12-06 19:52:39な「美術の中だろう、と。それは著書での記述に問題があったかもしれないが、社会の中とつなげるとそれは出る。例えばネオダダ、これは社会の方の反芸術につなげてもいいかもしれない。彼らの時代は安保反対闘争があり、そのデモでアンフォあ(アンフォルメル)反対を叫んだ
2014-12-06 19:53:57な「このアンフォ反対自体が美術内美術だという指摘にもなるかもしれないが。 く「美術史の循環運動に循環史観を使ってる。その運動を回していこうとしているようにみえる
2014-12-06 19:54:48な「その循環運動が美術内か美術外からくるのか、と く「人類史のサブカテゴリが美術史。そのサブカテゴリ内で運動していてもしょうがないはず
2014-12-06 19:55:35く「美術史で未来を予言できた、どうだでは仕方ない。それをつかって嫌な未来を避けたい。美術史に人類史を動かす力があるかどうか。予言があたったかどうかはどうでもいい。良い未来にするにはどうするか、だ
2014-12-06 19:56:54な「これをいうと嫌われるが、言っておく。デュシャンとゲーデルの不完全定理は一致する。どちらが先でなく、お互いにあることで助かるもの。シンクロする。その時にデュシャンをどう位置づけるか、美術史の中だけでいけるとおもう
2014-12-06 19:59:37く「トートロジーなだけで面白くない。美術史の中で思ってることだけでなくいやだなあと思う未来を実現してほしくないわけですよ な「つまりフクシマとフクシマ以降ですね
2014-12-06 20:00:55な「芸術家が震災直後に芸術は何ができるか、とリアルな問題となり、社会のために芸術は何ができるか、となる。フクシマの前にも911テロとイラク戦争の時もそうだ。
2014-12-06 20:02:44な「社会のための芸術だが、それは芸術の名前でやらなくてもいいと思っている。芸術原理主義者の処世術という文章を書いてるが、芸術家と市民としての自分を分け、芸術家としては芸術原理主義を突き進めばいいとかいた
2014-12-06 20:03:42く「芸術のための芸術にたいする対に人生のための芸術がある。これに納得出来ない。フクシマ以降で社会のために芸術が何ができるということは納得出来ない。芸術は社会や政治に対して再定義・再設定するものだと思う。 芸術のための芸術の反対ではない。
2014-12-06 20:05:12く「モダニズムのハードコアで浅田彰が言ってたが、宮台真司がブルセラを研究してるが、これは文化人類学的に面白いが、人の幸せからすると面白くないですよね、と批判する
2014-12-06 20:07:08く「芸術のための芸術と人生のための芸術では二項対立で、美術からのがられられず、社会に出ていけない。それを聞きたいし、私は書きたい
2014-12-06 20:07:40な「第一次世界大戦で芸術家がどうか変わったか。芸術が先か社会が先か、第一次世界大戦で何か始まるかもしれないという感覚があった。しかし第二次世界大戦期は多様性の時代まっただ中で、確かにシュルレアリスム弾圧もあるが、なんら美術に影響を与えたなかったという言説もある
2014-12-06 20:09:35く「中ザワ自身がプレーヤーなら、例えば第一次世界大戦に生まれたかったのに、第二次世界大戦に生まれてしまったとかいう場合どうすのか。 な「その場合はその後の抽象表現主義を準備する側に回る
2014-12-06 20:10:37な「なぜポロックはヘゲモニーを握れたか。それまではローカルアートの一つに過ぎなかったが、第二次世界大戦後、経済・政治をアメリカが握ったこと、
2014-12-06 20:12:14な「ポロックはアメリカの芸術を描かねばとインディアンの砂絵を書いてたが、真にアメリカ美術とは何かを突き詰めるとアメリカらしさを取り去ること、つまり「アメリカの」を取り去り、「美術」としたことだ。作品のタイトルもただの「作品」。
2014-12-06 20:13:17