『マックス・ヴェーバーの犯罪』論争を読む(2章)
- sennkyoushi
- 1349
- 1
- 0
- 0
『犯罪』2章での羽入の主張
まずヴェーバーがフランクリン『自伝』で箴言22:29「あなたはそのわざ(Beruf)に巧みな人を見るか、そのような人は王の前に立つ」が引用されているのを孫引きした際に注で「ルッター訳では>>in seinem Geschäft<<、旧英訳聖書では>>business<<と(続
2014-12-13 05:25:36続)なっている。なお、この点については、本書九六頁注(1)参照。」(『倫理』p50)と述べておりBeruf概念を創始したルターがこの箇所をBerufと訳していないことをヴェーバー自身が認めていることを羽入は指摘する
2014-12-13 05:25:50そしてヴェーバーが「このアポリアを回避するため」(『犯罪』p71)の議論を行うという『倫理』p101~の注(3)(以下この注を「長い注」と呼称)に話は移る
2014-12-13 05:26:46羽入によると「長い注」の行論をルターが箴言22:29にBerufという訳語を用いなかった理由という観点から読むと次のようにまとめられる(『犯罪』p76~77やp86表Iなどを参照)
2014-12-13 05:27:21③1530年代初頭からは『アウクスブルク信仰告白』にも見られるようにルターの思想に深化が起こりさらに一コリ7:20との類似もあって1533年にシラ11:20、11:21のἔργονおよびπόνοςに(単語の意味としては合わないにもかかわらず)Berufの訳語をあてた
2014-12-13 05:29:07以上に関して年代順から言えば真ん中の箴言だけがBerufの訳語を与えられていないのは一見妙なようだがその点にも説明がなされているため羽入も一旦は首尾一貫した立論であると評価する
2014-12-13 05:29:29しかしルターは聖書を翻訳した後も何度も改訂を行っていた もちろん箴言も改訂が行われておりそれは思想に深化が起こった30年代以降であるため改訂時に箴言22:29もBerufと訳されていなければならないが実際にはルターはそうしなかった
2014-12-13 05:30:09また一コリ7:20に関してヴェーバーはルターがBerufと訳したと述べるがルターが生前にその箇所をBerufと訳したことは改訂時を含めてもなかったことを羽入は指摘している
2014-12-13 05:30:57羽入に対する批判
ルターは改訂を繰り返していたから箴言22:29にもBerufの訳語があてられていないとヴェーバーの立論が成り立たないという羽入の主張に関して ヴェーバーが「箴言22:29がBerufと訳されなかったのはルターの思想が深化する30年初頭以前にこの箇所が訳されたからだ」と主張した(続
2014-12-13 05:32:30続)とみなす根拠として羽入は『倫理』p106~107を用いているのだが茨木によればヴェーバーはこの箇所で箴言22:29のメラーカーの「訳し方の理由を、むしろルターの『思想変化』の『認識根拠』として問題にしていた」(『解釈問題』p239)という
2014-12-13 05:32:55↑「三〇年代の初葉からルッターが各人のおかれている秩序をますます神聖視するにいたったこと、同時にまた、世俗的秩序を神の不変の意志によるものだとして甘受しようとする彼の態度がますます顕著になってきたことなどが、右の翻訳に現れているのだが、これは、生活のすみずみにまで及ぶ神の個別的な導きへのルッターの信仰がますます鋭い形をとるようになった結果だろう。>>vocatio<<はラテン語の伝来の用語法では聖なる生活、とくに修道院におけるあるいは聖職者たる生活への神の招命の意味に用いられていたのだが、ルッターの場合には、右のような教義の影響によって、世俗内的『職業』労働がそうした色調を帯びるようになった。なぜかといえば、ルッターはそのさい、『ベン・シラの知恵』にみえるπόνοςおよびἔργονの語がそれまでは修道士の翻訳に由来する(ラテン語の)類縁語があるにすぎなかったのに、ドイツ語の>>Beruf<<を訳語として用いているのだが、その数年前にはまだ『箴言』二二章二九節にみえるヘブル語のメラーカーを、すなわち『ベン・シラの知恵』のギリシャ語訳にみえるἔργονの原語で、とくに―ドイツ語のBerufや北欧語のkald, kallelseとまったく同様―聖職者の>>Beruf<<(召命)に由来するこのヘブル語を、その他の個所(『創世記』三九章一一節)と同様、>>Geschäft<<と訳していたのだからだ」(『倫理』p106~107)
なお茨木によれば引用中の「その他の箇所」という部分は誤訳で正しくは「他の諸箇所」と複数形であり具体的には『倫理』p96~の注(1)でメラーカーの用例として挙げられている箇所すべてを指すという―『解釈問題』資料(篇)p29
つまりヴェーバーは『倫理』のこの部分では「ルターは1530年代初頭から思想が深まってきたためにBeruf概念の創始に至った その傍証になるのだがそれ以前に独訳された箴言22:29や創世記39:11その他に見られるメラーカーという語はBerufに似た意味のヘブライ語なのに(続
2014-12-13 05:33:57続)Berufと訳されていない」ということを述べているだけであって「箴言22:29のメラーカーがBerufと訳されなかった理由は箴言を翻訳した際にはまだルターの思想が深まっていなかったからだ(1530年代以降に訳していればBerufと訳されていた)」と述べているわけではない
2014-12-13 05:34:20それゆえ羽入がまとめたようなことはヴェーバーは主張していないのである 私見では茨木のこの羽入批判は非常に頷けるもので『倫理』の記述から羽入が構成したような「ヴェーバーの主張」を読み取るのは深読みに過ぎるように思う
2014-12-13 05:35:02一方一コリ7:20がヴェーバーの言うのとは違ってBerufと訳されていないという羽入の主張に関して 羽入は『倫理』p106の記述を根拠に「ヴェーバーは一コリ7:20でBerufと訳されていると主張している」と言うのだが(続
2014-12-13 05:38:36続)対して宇都宮京子は「各自その現在の状態に止まれ、との終末観に基づく勧告」が指しているのは一コリ7:20だけではなく7:17~7:24 7:29 7:31 それに加えて『倫理』p102で(続
2014-12-13 05:38:59続)列挙されている一コリ1:26 『エフェソの信徒への手紙』1:18 4:1 4:4 『テサロニケの信徒への手紙二』1:11 『ヘブライ人への手紙』3:1 『ペトロの手紙二』1:10であると主張している(『論争』p132)
2014-12-13 05:39:10羽入の解釈では何故ヴェーバーが「各自その現在の状態に止まれ、との終末観に基づく勧告」などとぼかした表現をしているのかという疑問も残るが宇都宮の主張に従うとヴェーバーは「ルッターは、各自その現在の状態に止まれ、との終末観に基づく勧告の場合(つまり一コリ1:26、…)に、(続
2014-12-13 05:40:30続)κλῆσιςを>>Beruf<<と翻訳したが、そののち旧約外典を翻訳した時にも、各自その業にとまるべきであるとの、『ベン・シラの知恵』の伝統主義・反貨殖主義に基づく勧告の場合にも、両者(つまり一コリ7:20とシラ11:20、11:21)が(続
2014-12-13 05:40:52