郵便的脱構築と後期クイーン的問題

『存在論的、郵便的』、『1932年の傑作群をめぐって』と後期クイーン的問題との関連性にかんするまとめ
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@quantumspin

「チューリングマシンと後期クイーン的問題」をトゥギャりました。 togetter.com/li/763360

2014-12-29 15:15:29
@quantumspin

東は『存在論的、郵便的』の中で、郵便的脱構築について、『ゲーデル的脱構築は「脱構築可能」な構造に関わるのだと言ってもよい。対してデリダ的脱構築は(…)「脱構築不可能」な構造に関わる。』と述べた後、『ゲーデル的脱構築の残余物が(…)沈黙や神秘化を意味してはならない』と述べている。

2015-01-02 11:36:36
@quantumspin

さらに東は『ある意味でラカンの手紙は決して届かない。(…)しかしその絶対的不可能性は逆に、(…)「決して届かない事」をこそ保証してしまう。それはオブジェクトレヴェルではどこにも届かない。しかしメタレヴェルにおいては「どこにも届かない」場所に届く。』と続け、脱構築の全体性を批判する

2015-01-02 12:09:40
@quantumspin

東はデリダ的脱構築、『ある手紙が行方不明に、言い換えればシニフィエなきシニフィアンになるのは、郵便制度が全体として不完全だからなのではない。より細部において、一回一回のシニフィアンの送付の脆弱さが、手紙を行方不明にする。』は、ゲーデル的脱構築が前提する全体性への批判であると見なす

2015-01-02 12:17:20
@quantumspin

オブジェクトレヴェルの真偽判断不可能性こそがメタレヴェルの単一性を保証するという、ラカン的世界像へのデリダの抵抗(メタレベルの単一性の否定)は、探偵小説におけるゲーデル的問題の文脈ではどのように解釈され得るだろうか。法月は「一九三二年の傑作群をめぐって」で、この点に言及している。

2015-01-02 12:43:33
@quantumspin

『エラリーの証言(ありえたかもしれない可能性)は(…)効を奏さない。このことは、法廷で繰り広げられる言語コミュニケーションの一回的な細部において、エラリーの証言が行方不明になってしまうことを意味する。そうした場面を描くことによって(…)「否定神学」の罠に対して、自ら異議を唱えた』

2015-01-02 12:51:14
@quantumspin

『「災厄の町」(…)には、探偵小説をシステムの全体性という呪縛から解放し、微視的なコミュニケーションの一回性に向かって新たに開いていく回路の可能性が密かに示されている』。つまり法月は、(ありえたかもしれない可能性)を探偵が述べる行為が、郵便的脱構築に対応すると見ているようである。

2015-01-02 13:00:35
@quantumspin

『災厄の町』では探偵の陪審員への証言になっているものの、恐らくここで法月が考えているのは、手掛かりが真であったかもしれない可能性と、偽であったかもしれない可能性と、両方の可能性をメタレベルで並存させる事により、探偵小説を後期クイーン的問題から解放する、という可能性ではないだろうか

2015-01-02 19:45:50
@quantumspin

メタレベルの単一性を前提すると、ありえたかもしれない可能性と、唯一の真相との間に、原理的区別が生じる。唯一の真相について、探偵が考えを巡らせる事で、後期クイーン的問題なる「否定神学」の罠に陥る。しかし、メタレベルの単一性を否定すると、両者の間の原理的区別はなくなると考えられるのだ

2015-01-02 20:54:47
@quantumspin

法月の云う、メタレベルの単一性を否定する探偵小説とは一体どのようなものだろう。メタレベルで真相の唯一性を否定する探偵小説として、例えば筆者は、真相の欠落した探偵小説を挙げる事ができると思う。真相の欠落した探偵小説においては、探偵は真相追究を封じられ、作者ですら真の正解を知らない。

2015-01-02 21:06:19
@quantumspin

この時探偵は、有限で不完全な手掛かりを使い、その手掛かりの中で考え得る最良の仮説を構築せざるを得なくなる。真相の欠落した探偵小説において問題になるのは、当然真相との一致度ではない。真相の欠落した探偵小説において問題になるのは、どの仮説が最も良く手掛かりを説明できているか、である。

2015-01-02 21:15:32
@quantumspin

ところで、蔓葉信博は「推理小説の形式化のふたつの道」の中で、法月のいう『微視的なコミュニケーションの一回性』とは『推理小説におけるプロットや個々のロジックの再検討の必要性を訴えていると見るべきであろう』という見解を表明している。これはいったいどういう事だろうか?

2015-01-02 21:43:31
@quantumspin

確かに法月は、『災厄の町』について論考する事で『「操り」を主題とすることからの展開の示唆』を行っている。それは『プロットや個々のロジックの再検討の必要性を訴え』る結果にもなるかも知れない。しかし、その再検討と『微視的なコミニュケーションの一回性』との間に、何の関係があるのだろう。

2015-01-02 22:51:09
@quantumspin

『1932年』において、件のプロットに言及していると思われるのは『出自を同じくする「筋書き殺人」のプロットが、前者(Yの悲劇)では「操り」という支配ー服従関係を構成するのに対して、後者(災厄の町)では二者間の相対的なコミニュケーションの非対称性を浮き彫りにする』という箇所である。

2015-01-03 17:33:48
@quantumspin

蔓葉はここに、後期クイーン的問題への法月の抵抗を見たという事になる。しかし、法月がここで論じているのは、後期クイーン的問題とは無関係の話題に見える。確かに法月は、『操り』という言葉を使っている。しかし、これは犯人が偽手掛かりにより探偵を『操る』いわゆる後期クイーン的問題とは異なる

2015-01-03 17:40:38
@quantumspin

ここで法月が述べているのは、「筋書き殺人」のプロットが、支配ー服従関係か、横並びの関係か、に関する話題であり、後期クイーン的問題の文脈で読み解く類の話ではないだろう。「1932年」はあくまでクイーン作品の構造に関する論考であり、当然後期クイーン的問題と無関係な考察も見受けられる。

2015-01-03 17:49:44
@quantumspin

しかし蔓葉は、これを後期クイーン的問題に対する法月の抵抗と読んだのではないか。結果、法月の後期クイーン的問題への抵抗「微視的コミニュケーションの一回性」と「プロットや個々のロジックの再検討」とをイコールで結んでしまったのではないか。そう考えれば、この意味不明な文章にも説明がつく。

2015-01-03 17:58:58
@quantumspin

一口に『操り』といっても、そこには後期クイーン的問題に関係するそれと、関係しないそれとが混在していると思う。前者は(メタ)犯人による探偵の『操り』、後者は(メタ)犯人による(実行)犯人の『操り』である。後期クイーン的問題が、手掛かりの真偽判断を問題にする限り、後者は無関係である。

2015-01-03 18:23:24
@quantumspin

まとめを更新しました。「不完全性定理の前提破壊と後期クイーン的問題」 togetter.com/li/767652

2015-06-07 11:12:22