- kagachi_ecm
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枕
今日も、午後に、なっちゃったな。テーマは #尾張留守所 。後三条天皇の即位の年(治暦4(1068)年)から、愛知県史『古代2』と『中世1』に見える、尾張留守所関連の文書(主に留守所が発行した文書)をつまんでみたい。終点はアジテーションの年(文和2(1353)年)。
2015-01-02 13:11:53なんで後三条かというと、教科書的に院政というか摂関政治の制度疲労があらわれるのが後三条の時代といわれて、まあ、まだ、摂関期というか平安の律令制なのかでの地域支配って、まだ、あまり自分でも、やってなくて、それはそれでメインディッシュとして、とっておきたかったので。 #尾張留守所
2015-01-02 13:36:53本文 資料
つーか、院政期の国司の補任って、日記でしか追えないのか?しかも会議に出ている人が入れ違いになるようで、1つの日記だけでは追えないらしい。天皇の御所で決まったのか、院の御所で決まったのかも、よく分かんないな。 #尾張留守所
2015-01-02 13:45:05古一〇九二・一〇九三:長寛元(1163)年8月17日、佐伯遠長領・鈴置村に関して、尾張守平重衡→留守所、留守所→中島郡南条司。 #尾張留守所
2015-01-03 15:09:34源平の争乱以後、承久を通り越して1225年まで、留守所関係の文書はない。情勢が安定するまで留守所が機能しないというより、お上が安定するまで空手形を防ぐためか?地域残存の文書の上限が、この辺というだけなのかも? #尾張留守所
2015-01-04 13:27:54中二〇六:嘉禄元(1225)年、国司庁宣案。尾張国司、小野成政の申請する総社修理料田を認める。(在判とあるのをすり消して花押を書く。写しを原本として使用?) #尾張留守所
2015-01-04 13:24:11中二五八:嘉禎2(1236)年10月、庁宣案、公領に戻された神社領から一定の割合で神社へバック。(性海寺文書) #尾張留守所
2015-01-04 13:42:07中二五九:嘉禎(かてい)2(1236)年10月、尾張国司、重枝・次郎丸の名主職を尾張俊氏に安堵。(文書一式) #尾張留守所
2015-01-04 13:47:05中二七三・二七四:暦仁元(1238)年12月、尾張国司、熱田・真清田社領の4名のうち3名の不入を追認。漢文が読めん(T_T;) #尾張留守所
2015-01-04 13:54:47中四七一:弘安4(1281)年、美濃国在庁官人等重申状。尾張国の悪党、上総房・寛西の刈田狼藉を訴える。(参考) #尾張留守所
2015-01-04 14:32:51八八六:嘉暦4(1329)年3月19日、下津宿で尊勝法を書写。変なのが出てきた。寺名がなく下津宿とされる。寺名を失念したのか、宿に寺的なモノが必要不可欠に結合しているのか? #尾張留守所
2015-01-04 15:28:02弘安(1281)、正中(1325)、文和(1353)の頃に『尾張国郡司百姓等解文』が写されると言うことは、この時期に尾張国衙留守所のアーカイブを整備しようというような運動があったのか?正中の時は、伊勢・桑名まで書写しに行ってるらしい。 #尾張留守所
2015-01-05 13:27:17逆説的にいって、正中(1325)の尾張国衙・留守所には、該当の『解文』がアーカイブされてなかったのでは?それは、役所が古文書のアーカイブにルーズであったということ以上に、国府宮から下津への移転のような物理的な転換点が、このくらいの時期に求められるのでは? #尾張留守所
2015-01-05 13:30:54それこそ、昨日の下津宿での経展の書写ではないが、墨俣−下津−萱津という経路が東海道の本道より重視され、阿仏尼、叡尊などが下津を経路とする。「駅(うまや)」という言葉遣いや、古代国衙が官道に隣接する事と考えて、応永3年に突然に在庁が下津に移るとは言いにくいのかも? #尾張留守所
2015-01-05 13:35:38