『形而上学』二つの読み方の可能性

『形而上学』、主に第七巻の読み方に関して。二つの可能性を提示する。一つは、いわゆる「実体論」として(ハイデガーが指摘し批判した「三つのドグマ」へ直結する読み方)。もう一つは、もっと肯定的な読み方。
3
悠空冥海 @yukumemi

ちょっと前に、付帯的にあると言われることと、それ自体においてあると言われることの区別を、原理・原因が他の何かであるか、それともある意味でそれ自身が原理・原因となっているか、じゃないか、という話をした。

2010-12-08 19:39:47
悠空冥海 @yukumemi

私はこれを、卒論での主要な主張の一つにしたいと思う。アリストテレスにおける付帯的と自体敵の区別は、原理をどこに求められるか、であると。

2010-12-08 19:41:02
悠空冥海 @yukumemi

第六巻で語られている付帯性はそのように理解できると思う。またそれは、自然学と「不動の動者」の理解も支えてくれることだろう。

2010-12-08 19:42:10
悠空冥海 @yukumemi

というのも、自然学つまり運動論においては、物事は何か他のものを原因として変化する、という基本姿勢があるからだ。だから実は、自然学について研究するものは付帯的な意味でのあるについてしか研究しないものなのである。アリストテレスが、六巻第二章(か第一章)で言ってることと重なるはずだ。

2010-12-08 19:44:31
悠空冥海 @yukumemi

それに対して、「いや、第一の哲学が研究するのは違うのだ」というのは、つまり「それ自体においてあると言われる」の探求であるといえるのではないだろうか。存在を存在として探求するというのは、存在の「それ自体において」の存在を探求することではないだろうか。

2010-12-08 19:46:24
悠空冥海 @yukumemi

すると、『形而上学』の中に、一見運動論の延長のように思われる「不動の動者」論が入ってくることも理解できる。というのも、この存在者は「それ自体であると言われる」ものであり、ことこれに関しては、実際自然学のする仕事ではなく第一の哲学のすることになるだろうから。

2010-12-08 19:48:09
悠空冥海 @yukumemi

アリストテレスが哲学を分けて、時に「真の意味での存在」と言うのは、つまり「それ自体においてある」の意味であろう。すれば当然自然学は「第二の哲学」であること必然的である。なぜなら自然学の対象は「他の何者かによってある」付帯的なあるの探求だからである。

2010-12-08 19:49:43
悠空冥海 @yukumemi

だから、逆に『形而上学』は、最初から「それ自体であると言われる」存在者を求めていたし、原理と言われるものも、「それ自体であると言われる」ものでなければならなかった、そこであの神が必然的にでてきた、と言えるのではないだろうか。

2010-12-08 19:51:19
悠空冥海 @yukumemi

しかし、アリストテレスの探求は、実際「存在が様々に語られる」ことを「原理(探求のとっかかり、の意味で)」としてされていたはずである。その語られ方が四つあり、その中の一つを取り上げて「第一の哲学」の仕事にしている。このことが彼をある意味ではパルメニデスと近くした原因ではなかろうか。

2010-12-08 19:54:05
悠空冥海 @yukumemi

実際、アリストテレスとパルメニデスは対立しているように見えて結構似ている。というのも、対立しているのは知恵に対する「探求姿勢」であって、「知恵」そのものの内実ではないからである。パルメニデスは人間の知を臆見といった。しかしアリストテレスは、人間でも真の知恵に至れる、としたのだ。

2010-12-08 19:56:18
悠空冥海 @yukumemi

そして真の知恵に至るための材料が、他の哲学者たちの考えたことであったり(第二巻など参照)、それも含めて「存在は様々に語られる」ことなのである。パルメニデスがまさに批判したこのことからでも、知恵に至れる、というのは見過ごせない観点だ。

2010-12-08 19:58:18
悠空冥海 @yukumemi

アリストテレスは「ない」を認めているか? 認めているふりをしていながら、実は「ある」だけに話を集約していないか? 「非存在」は「あるのではない」「ないのである」として「ある」一つで語っている(該当箇所ど忘れ。第七巻のはじめのほうの気はしている)。

2010-12-08 20:02:38
悠空冥海 @yukumemi

だから第七巻は、「実体というにもいろいろな意味がある」けれども、どれが「それ自体において」そうであると言われるのか、の探求ではないのだろうか。そして実際、「実体」は「何であると言われるのでなしにそうである」とも定義されている。これはつまり、他の原理・原因ではない、ということでは。

2010-12-08 20:06:28
悠空冥海 @yukumemi

「実体」はむしろ、「それ自体でそうある」の第一のものである。そして、形相や質料が「どのような意味で・観点からして」それ自体で実体であると言われるのかを明らかにしようとしているとしたら、どうだろう。

2010-12-08 20:08:27
悠空冥海 @yukumemi

原理という観点からしては、質料も形相も結合体も、ある意味ではそう言えると思う。しかし、「それ自体でそうある」という観点からしたら、どうだろう。普遍はそれ自体でそうあるとは言えまい。原理としてもそうである。

2010-12-08 20:12:56
悠空冥海 @yukumemi

この先どうすればいいのかは、正直わからない。けれど、今のところ感じた疑問を書き留めておいて見る。

2010-12-08 20:14:02
悠空冥海 @yukumemi

それは、「おいおい、存在は様々に語られると言いながら、それ自体においてある実体だけに話を絞って、そこから実体が様々な意味で言われることを言ったけど、それって結局、存在はある意味で一つ、ってことなんじゃねえの?」ということだ。おそらくこれは、「類比の統一」だ。

2010-12-08 20:16:48
悠空冥海 @yukumemi

とすると、実は最初のところ、つまり「原理」に問題があるんじゃないだろうか。「存在の存在としての原理」は存在する何者かである必要がある。この原理はある意味では多くの意味をもつが、ある意味では一つである。アリストテレスはこの格好を歓迎するだろうが、我々としてはそうはいかない。

2010-12-08 20:19:09
悠空冥海 @yukumemi

なぜなら、「存在としての存在の原理」として「それ自体であると言われる」「自体的に存在する」「存在者」を据えることは、問題の回答になっていないからだ。「存在するとはどういうこと?」に対して、「こういう存在者が存在するからだ」では答えにならない。

2010-12-08 20:21:40
悠空冥海 @yukumemi

「存在としての存在の原理」として、「それ自体であると言われる」ものを問いただした時点で、アリストテレスの探求はやはり間違っていたと言わざるを得ない。

2010-12-08 20:23:53
悠空冥海 @yukumemi

ここで必要な考察が、「世界とは、そして言葉とは、世界と言葉とは?」ということになるだろう。というのも、アリストテレスの考えでは、世界と言葉はある意味で一対一対応をなして、命題は事物の真偽を問えるものであるからだ(分析論前書の初め)。

2010-12-08 20:26:04
悠空冥海 @yukumemi

ある意味で、アリストテレスが存在についてその多様に語られることを探求しているときには、綺麗に事物と対応付けられている。「それ自体においてある」と言うは、「事物がまさにそれ自体においてそのようにある」の意味である。

2010-12-08 20:28:18
悠空冥海 @yukumemi

だから、「存在は様々に語られる」は「エイナイ」が様々な意味で語られる、であって同時に「存在者」が様々に語られる、の意でもある。だから、「存在としての存在の原理」は「存在すること」の探求ではなく、「存在者の、何によって存在するのか」という意味で「原理」の探求なのである。

2010-12-08 20:31:13
悠空冥海 @yukumemi

考えなければならないのは、「存在は様々に語られる」とはどういうことか、ということである。決して、それはどんな存在者によってそうなるか、ではない。

2010-12-08 20:33:05
悠空冥海 @yukumemi

アリストテレスとは違った、世界と言葉の理解を持つことで、アリストテレスができなかった探求が、開けてくるはずである。その先駆者は、やはりハイデガーだ、と私は言っておきたい。

2010-12-08 20:34:31