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misonikomioden
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「具体」について。 吉原治良は「今までになかった絵を描け」と言ったが、それこそ典型的モダニズム、未視感の追求であり前衛の特徴だが、しかしそれをなぜ強迫観念的に追求したか?
2015-01-16 20:18:05![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
具体は宣言文に機関誌がある。 また数ヶ月遅れて0会が合流するが、後から見れば、その0会のメンバーが重要だと見られている。
2015-01-16 20:20:17![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
白髪一雄は絵画を足で描く、泥に挑むを行ったアクション的なものだが、これは繋がっており、つまり「描く」という衝動そのものが重要ということである。
2015-01-16 20:24:08![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
九州派。 作品がほとんど残っていない。それは作品を残すことそのものが保守的行為であり、自らに対し過激になると壊さざるを得なくなり、残らない。そのことが九州派の評価を非常に遅らせることになる。菊畑茂久馬
2015-01-16 20:25:38![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
九州派は東京爆撃と何度も東京で展示を行うが、東京など気にしてないと。しかしアンチ東京と言えば言うほど結局、東京を気にしているわけだ。 それは反芸術といえば言うほどそれが芸術を気にしていることであるのと相同。
2015-01-16 20:27:39![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
現代美術史日本篇では、日本のアイデンティはどこにあるのかはいっていない単なる現代美術史の日本篇としているが、 そこで日本というくくりを設定するだけで意識されざる得ない。
2015-01-16 20:28:02![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
具体に対し東京の批評家は対応できず無視するが、吉原治良は「こちらが熟れた果実を差し出しているのに誰か一口食べないと誰も食べない」と揶揄する。その誰かとは西洋を指す。結局海外から評価されないと独自に評価できない。
2015-01-16 20:32:08![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
そのことはエイドリアンファベルがNADiffのトークで、海外から日本がどう見られてるかは置いておき、そうでなく会田誠作品がどう素晴らしいか話そう。その会田誠作品がサーチコレクションに入らなかったのはなぜなんだ、みたいな、ことからも分かる、
2015-01-16 20:34:50![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
つまり、そういった瞬間に、サーチコレクションが基準となっている。 日本の評価基準にサーチが従い真似ればいいだけなはずだ。
2015-01-16 20:36:19![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
同様のことはメディア芸術祭にもいえる。 マンガ・アニメを打ち出す際、常に海外からの評価によって成り立たせている。結局クールジャパンの拠り所は海外である、と
2015-01-16 20:37:07![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
この構図は敗戦から始まっている。 戦前の日本画は洋画に対する反抗から岡倉天心やフェロノサから明治に創出されたが、独自の評価基準を作ろうとしていた。それが成功したかどうかはわからないが、結局敗戦によりアメリカから否定された。
2015-01-16 20:39:07![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
新しい歴史教科書について右翼の理論家はこう指摘し批判する。 天平・飛鳥文明があったとあるが、その歴史教科書の記述はヘレニズムとも勝るとも劣らないと記述。つまり評価基準がヘレニズム=であってすでに負けている、と。
2015-01-16 20:39:28![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
先駆者という言葉はけっして褒めてない。 これはまつだいらのりあきから聞いたことだが、「先駆者としてのエリック・サティ」という評価は、結局ヘゲモニーはドビュッシーが握っているだけででしかない。
2015-01-16 20:40:48![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
地方(東京に対する九州や、欧米に対する日本)、ここまでやらないと遅れている、となってしまい、逆説的にもっとも先端となってしまった。
2015-01-16 20:41:29![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
読売アンデパンダンでは、作品がどんどん出っ張ってきたが、そこで循環史観としてみれば、へたウマの時代、日比野克彦を含め、どんどん画面にものが貼り付けられたことに繋がる
2015-01-16 20:42:36![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
「具体」、抽象にも関わらずなで具体か? 物質として(の絵具)で抽象をかけば抽象画だが、物質が物質としてあること、それが具体物でしかない。だからこそ「具体」
2015-01-16 20:44:31![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
吉原治良「具体美術は物質を変貌しない。具体美術は物質に生命を与えるものだ。具体美術は物質を偽らない。具体美術に於ては人間精神と物質が対立したまま、握手している。物質は精神に同化しない。精神は物質を従属させない。物質は物質のままでその特質を露呈したとき物語りをはじめ、絶叫さえする」
2015-01-16 20:44:59![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
社会主義リアリズム絵画は、理念を具体的に大衆へ訴えかけるもので、精神に従属したものであり、「具体」からは最もかけ離れたものだ。
2015-01-16 20:45:59![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
音響を音響のままだす。ミュージック・コンクレート 文字を文字のままだす。コンクリートポエトリー(具体詩) 物質を物質のまま出す美術として「具体」。 ちゃんと日本語で「具体」としたことも重要。
2015-01-16 20:49:57![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
コンクリートポエトリー(具体詩)の「新国誠一」。 彼の展示は「国立国際美術館」という美術館で行われた。 nmao.go.jp/exhibition/200…
2015-01-16 20:52:06