- shosho_1955
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「伊藤くん、今すぐ家に帰って2、3日の着替えを持って神戸に行ってくれ」阪神淡路が起こった時、1週間も経ってから上司に命令された。(今さら?)と思いながら命令に従った。まさかそのまま1ヶ月も帰ってこれなくなるとは思ってなかった。
2015-01-17 23:59:23神戸では、尼崎に自社ビルがあるコンサルの建物を拠点として、六甲山系の崩壊地調査に従事することになった。日中は複数のコンサルが現地調査をして、夜我々がそのデータを取りまとめるという作業だった。日中は、前の夜取りまとめたデータを自転車で六甲砂防工事事務所に届けた。
2015-01-18 00:02:31我々が宿泊していたのは、その尼崎のコンサルの女子更衣室。畳があるのがその理由だった。我が社にはないいい匂いがしたが、3日もすると、まるで高校山岳部の馴染み深い匂いに変わった。
2015-01-18 00:05:01六甲砂防工事事務所(当時)には、ものすごい数の被災者が避難していた。指定避難所でもない事務所を開放していること自体にものすごく驚いたが、それどころではない忙しさだったので、その点はスルーした。今思えばなぜ開放したのかくらい聞いておけばよかった。
2015-01-18 00:09:28電話が通じにくかった。会社がレンタルした衛星携帯がすごく役だった。モトローラだったかな?あと自転車は最強の移動手段だった。尼崎駅前の立ち食いうどん屋がすぐに営業を開始してくれたので、朝ごはんに温かいうどんが食えたのが最高に幸せだった。
2015-01-18 00:12:23あ、もう一つあった。六甲砂防にチャリでデータを届けに行った時、被災者から炊き出しのけんちん汁をいただいた。鼻水たらしていたので寒かったんだろうと思われたんだね。心が震えるくらいうまかった。あったまった。
2015-01-18 00:18:35震災3週間後からは京都にホテルが取れたので、そこから尼崎に毎日通った。専務理事との相部屋で、しかもいびきがすごい人だったので、かなり苦痛だった。京都ー尼崎間の通勤も結構苦痛だった。朝7時には出ないとならない。しんどかった。
2015-01-18 00:31:57阪神淡路の2年後、九重山が噴火した。噴火した時、僕はインドネシアにいたが急遽帰国して現地へ行った。何度も現地に行った。翌年の元旦からも調査に入った。竹田市内の店がやってなくて餓死するかと思った。
2015-01-18 00:46:17木造家屋にキラーパルスがあるんなら、土砂災害にもキラーパルスがあってもいいんじゃね?と思い、土砂災害起こした主要な地震の強震データの速度応答解析結果を比較してみたけど、なぁ〜んにも見えない。(´・_・`)
2015-01-18 22:45:58そういや、昔、震度5強以上で崩壊が発生するって論文書いたなぁ。国総研の危機管理センターに出向している頃。それまで震度4以上で緊急点検に駆り出されていたので、「めんどくさい。本当に震度4程度で土砂災害起きるのか?」というサボり動機で書いた論文だった。
2015-01-18 23:09:33