「毛利」なのに「大江」じゃ、な…いだ…と!?

個人的なまとめ。 安芸「毛利」といったら本姓が「大江」のはずなのに、本姓が「藤原」がいたのですよ…
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毛利家の本姓は「大江」なのに…

うるちまい @japonikamai

大河ドラマ館ついでに今まで年一回(時代祭駐車場として)しか入れなかった旧明倫小学校敷地内の史跡巡りして僕は衝撃をうけたんだ…毛利なのに本姓「藤原」。他の毛利と毛利派生の桂は「大江」なのに。何故この毛利壱岐守吉統は「藤原」なのか…? pic.twitter.com/YjaCqYF1ba

2015-01-12 22:05:00
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よく確かめもしないで「毛利壱岐守吉統」と勘違い

ののまる @nonomaru116

鯰江氏系の毛利氏(豊後佐伯藩主家など)は宇多源氏→藤原氏だな。

2015-01-12 22:56:19
  • 混同なってた元「森」の「毛利(壱岐守)」さん
リンク Wikipedia 毛利勝信 毛利 勝信(もうり かつのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣氏の家臣。別名は吉成(よしなり)、本姓は森氏で、森吉成を名乗った期間が長く、毛利吉成とも称する。官位は壱岐守。号を一斎。子に毛利勝永(吉政)など。 尾張国で誕生したとされるが、近江国長浜で誕生したとする説もある。また尾張国葉栗郡の曼陀羅寺を菩提寺とする森一族であるとする説もある。弟に毛利吉雄(吉衛とも)がいる。早くから豊臣秀吉に仕えた古参の家臣で、黄母衣衆の1人であった。 秀吉による九州平定に参戦し、城井谷城攻略の過程など
リンク Wikipedia 毛利勝永 毛利 勝永(もうり かつなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣氏の家臣。大坂の陣で活躍。また大坂城入りを励ました妻は、戦前は銃後の守りの手本として、『婦女鑑』(明治20年)などに取り上げられている。 勝永という諱は一次史料で確認できない。発給文書は全て吉政(よしまさ)と署名しており、史料では毛利吉政(森吉政)。この吉政の「政」は龍造寺政家からの一字拝領である。 天正6年(1578年)、森吉成(毛利勝信)の子として、尾張国で誕生したとされるが、近江国長浜で誕生したとする説もある。父
  • 森(毛利)さんについて
リンク Wikipedia 森氏 森氏(もりし)は清和源氏の一流、河内源氏の流れをくむ武家である。八幡太郎源義家の七男源義隆が相模国愛甲郡毛利庄の領主となって、森冠者と名乗った。その三男、源頼隆は後に若槻を号するが、出家の後は森蔵人入道西阿と称した。本格的に森を名字としたのは、宝治合戦後に頼隆の次男であるとされる森頼定が森姓を称したことによるとされる。遠祖陸奥七郎義隆の長男・義広(頼定の伯父)にはじまる源姓毛利氏とは、名字に多少の差異はあるものの、「名字の地」すなわち名字発祥の地を同じくするとされる。森忠政を祖とする近世大名の家系はこの
リンク Wikipedia 鯰江氏 鯰江氏(なまずえし)は、日本の氏族のひとつ。藤原姓三井家流、のち宇多源氏佐々木六角氏流。 荘園時代には興福寺の荘官であったという。室町年間、六角満綱の子高久が三井乗定の養子となり、近江愛知郡鯰江荘に鯰江城を築き鯰江を称して以降、代々近江守護六角氏に仕え、諸豪と婚姻を重ね勢力を蓄えた。永禄11年(1568年)に鯰江貞景・定春が観音寺城を追われた六角義賢父子を居城に迎えたことから織田信長の攻撃を受けて天正元年(1573年)9月に鯰江城は落城、以後一族は各地に分散した。一部は同郡内の森に移住して森を姓とし、後に
リンク Wikipedia 毛利氏 (藤原氏) 毛利氏(もうりし)は、宇多源氏(佐々木氏嫡流六角氏流)であるが、養家の姓により藤原姓を称する。後に織田家の家臣となり豊後国に2万石で入封した。 宇多源氏の末裔で佐々木氏の嫡流にあたる六角満綱の子高久が、藤姓三井乗定の養子となって、近江国愛知郡鯰江荘にあって鯰江姓を称した。鯰江氏は代々六角氏に仕えるが、鯰江定春の代に織田氏に攻められ鯰江城を失うと、同郡内森に移住し森を姓とする。 定春の弟森高次は織田信長に仕え、尾張国中島郡に領地を得る。豊臣秀吉が台頭し、中国攻めの総大将となると、高次の子高政はその幕下となっ

勘違い(間違い)に気づく

うるちまい @japonikamai

@japonikamai 良く見たら(劣化前画像)の藤原姓毛利、 「毛利 筑前 藤原 元統」 だった。 森ェ...(ギリィ)

2015-01-12 23:52:02

何故この「毛利」の本姓が「藤原」なのか?

うるちまい @japonikamai

@japonikamai お前だったのか!毛利筑前藤原元統は! ja.m.wikipedia.org/wiki/毛利元亮 右田・吉敷毛利メェ...。 いつか吉敷毛利の菩提寺行って確認してやる(ギリリ)

2015-01-12 23:57:41
リンク Wikipedia 毛利元亮 毛利 元亮(もうり もとすけ、文政元年(1818年) - 明治20年(1887年)3月21日)は、長州藩一門家老である右田毛利家の11代当主。 父は吉敷毛利家の毛利房謙。祖父は厚狭毛利家の毛利就宣。曽祖父は右田毛利家7代毛利広定。養父は毛利房顕。妻は厚挟毛利元美の娘。子は毛利祥久、毛利忠三。養子は毛利親信。 通称は筑前。藩主の毛利斉元より偏諱の授与を受けて元亮と名乗る。諱は元亮のほかに、元敬(もとたか)、元統(もとむね)が伝わる。 文政元年(1818年)、一門吉敷毛利房謙の次男として生まれる。天保6年(1

まづは「吉敷毛利」

うるちまい @japonikamai

@japonikamai 吉敷毛利の祖は秀包。秀包になにかありそう。 ja.m.wikipedia.org/wiki/吉敷毛利家

2015-01-13 00:05:07
リンク Wikipedia 毛利秀包 毛利 秀包(もうり ひでかね)/小早川 秀包(こばやかわ ひでかね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。筑後国久留米の大名。安芸国の戦国大名・毛利元就の九男で、異母兄である小早川隆景の養子となる。 永禄10年(1567年)、毛利元就の九男(庶子)として生まれる。長兄(異母兄)の隆元は生まれる前に死去していた。元亀2年(1571年)1月、元就の意向によって備後国戸坂氏の75貫の遺領と遺臣を与えられるが、同年5月に同じ備後国の国人・大田英綱が死去し、その遺臣である平対馬守と渡辺河内守に懇願されて大田氏
リンク Wikipedia 吉敷毛利家 吉敷毛利家(よしき もうりけ)は、江戸時代の毛利氏の一族。長州藩の一門家老第四席。毛利元就の三男小早川隆景・九男小早川秀包を祖とする。 小早川隆景は実子がおらず当時備後国の国人領主大田氏の跡継ぎとなっていた九弟の小早川秀包を養子とする。しかし秀包は隆景の養子に豊臣家から秀秋が入ると廃嫡され、この時別家を立てている。秀包はその後も豊臣秀吉から優遇され、隆景に従って各地を転戦するうちに加増を重ね、晩年には筑後国久留米城主として13万石を知行するに至った。関ヶ原の戦いでは西軍について京極高次が守る大津城を落とし
うるちまい @japonikamai

@japonikamai 小早川は土肥氏。 ja.m.wikipedia.org/wiki/小早川氏 どこで藤原姓がまじったんだよ! この右田か吉敷かの毛利!!

2015-01-13 00:11:21
リンク Wikipedia 小早川氏 小早川氏(こばやかわうじ、こばやかわし)は、日本の氏族の一つ。著名な一族は中世から近世にかけての武家。 相模国を本拠地とする桓武平氏土肥氏の分枝で、鎌倉時代初期、源頼朝に仕えた土肥実平の子・遠平が土肥郷の北部・小早川(現在の神奈川県小田原市早川付近)によって小早川の名字を称したのが始まりの一つと伝わる。 遠平は平氏討伐の恩賞として平氏家人沼田氏の旧領であった安芸国沼田荘(ぬたのしょう、現在の広島県三原市本郷町付近)の地頭職を拝領し、これを譲られた養子・景平(清和源氏流平賀氏の平賀義信の子)が、安芸国に移住

次に「右田毛利」

うるちまい @japonikamai

@japonikamai 元統の養子先の右田毛利の祖は天野元政。 ja.m.wikipedia.org/wiki/右田毛利家 天野家になにかあるのか?

2015-01-13 00:14:27
リンク Wikipedia 右田毛利家 右田毛利家(みぎたもうりけ)は、江戸時代の毛利氏の一門家老のひとつ。 毛利元就の七男・毛利元政(天野元政)を祖とし、関ヶ原の戦いの後周防三丘(現在の山口県周南市)に1万石を与えられたが、元政の嫡男である元倶が同じく一門家老であったと宍戸家と領地を交換し、1625年(寛永2年)に周防右田(現在の山口県防府市)に移封され1万3000石を与えられた。以降は右田毛利と言われ、長州藩の一門家老となる。なお、家格は一門家老中では、宍戸家に次ぐ。 右田毛利家の居館は現在の上右田地域にあった(館や遺構は現存していないが、