「人を殺してみたかった」という気持ちを「受容」する=殺人を「許容」することではない。
- otsukiko0922
- 2945
- 0
- 0
- 0
「人を殺してみたかった」という動機は、事件を起こした動機としては理解しがたいだろう。ただ、それを精神病理として、我々の住む世界から切断してはならない。「殺してみたい」と強く思うに至る過程に目を向けると、専門家にすらその殺人衝動を受容されないことがほとんどだ。
2015-02-11 08:47:54「受容」とは、決して「気持ちはわかった。じゃあ、殺してみなよ」というものではない。そのような突拍子もないような衝動について話をすることすら許されない不寛容な環境にも問題がある。危険な衝動に見えても初期段階で話を否定せずに聞いていくと、認知の歪みは修正できることが多い?
2015-02-11 08:52:31かく言う自分も高校くらいまで、そのような自己及び社会破壊衝動に悩んだ。中学で不登校になり、高校は内申点の低さから底辺高校に行き、アルバイトをしたいと電話すると、高校の名前を出すだけで、面接すらしてもらえなかった。その時分は、かなり社会から疎外された状況からイライラが募る毎日だった
2015-02-11 08:58:29僕は不登校時代に自分の部屋中に呪いの言葉を半紙に何枚も書いて、貼りまくった。そして、小刀を自分の机に突き刺し、自分を、殺すか、家族を殺すか、学校で自分をいじめる奴らを殺すか悩みに悩んだ。この懊悩は、誰にも理解されなかったので、20代前半まで心に閉まっておいた。
2015-02-11 09:04:20ただ、音楽が好きという一点が僕の光だった。音楽で世界を変えられると勘違いした自分がそこにいた。しかし、デフレパードのボーカル、ジョー・エリオットが「音楽で世界を変えた奴はいない。だから、俺は歌詞に社会へのメッセージを託す意味がわからない」というインタビューを聞いて何かが変わった。
2015-02-11 09:08:46たまたま僕は、その後もライターになる前にかなり社会から見たら逸脱行動をする人たちと接する機会を持ち、自分の破壊衝動が異常ではないと認識できた。それから、ライターとして、「自傷行為が生きるためにも行われる」という1999年当時は理解されなかった心象を記事や本に書き始めた。
2015-02-11 09:13:18それからの経験があるから、今も施設で脱社会的な発言をする子どもたちに真正面から耳を傾ける。イスラム国の行った行為に共感する子どもを一喝することなく、まずは話を聞いた。そこから、認知の歪みについて話を重ねて行き、少しずつ殺人や破壊衝動を実行する不利益などにていて話し合った。
2015-02-11 09:18:34まだまだ、その子は気を許すと、他の大人に殺人、破壊衝動を一喝され、その結果実行一歩手前まで行きかける。しかし、長年掛けて理解されずに積み上げられた衝動はなかなか収まらない。だから僕は彼が衝動と上手く付き合えるまで寄り添い続けるつもりだ。
2015-02-11 09:22:38まだまだ、その子は気を許すと、他の大人に殺人、破壊衝動を一喝され、その結果実行一歩手前まで行きかける。しかし、長年掛けて理解されずに積み上げられた衝動はなかなか収まらない。だから僕は彼が衝動と上手く付き合えるまで寄り添い続けるつもりだ。
2015-02-11 09:22:38