スプロール鎮守府まとめ

けろきゃ @k6ky

不知火は目の前に差し出された碗を呆然と見つめていた。何度見ても、中身は醤油味の汁に餅と小松菜が入っているだけだ。「あの、司令、これは…」「待て不知火、みなまで言うな」ナカムラが芝居がかった態度で制する。 #スプロール鎮守府

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今日は元日。不知火は普段通りに起き、徹夜のナカムラと年始の挨拶を交わした。薄汚れたビルの隙間から覗く初日の出を拝んだあと、いよいよ朝食である。ナカムラは調達した食材に自信があるようで、雑煮を楽しみにしていろと年末散々言われた。そして出てきたのが、この碗である。 #スプロール鎮守府

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「確かに正月菜は手に入らなかったので、小松菜で代用した」正月菜? 不知火の困惑は深まるばかりだ。「だが鰹節は凄いぞ。首都のお偉方が使う名店に頼み込んで削ってもらった、本物の本枯れ節だ」背に隠した右手から真空パックを取り出す。 #スプロール鎮守府

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不知火の困惑をよそに、ナカムラは真空パックを開け、中の削り節を自分の碗にふりかける。「こうやって湯気に踊る鰹節が正月らしさだよな」満足気なナカムラにようやく不知火が口を出す。「いえ司令、正月のお雑煮というからには、もうちょっと華やかさと言いますか…」 #スプロール鎮守府

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まさかナカムラが偽の雑煮を用意して不知火をかついでいるわけでもあるまい。食材調達の難しさは理解しているつもりであるから、あまり強いことも言えない。とはいえ、あれだけ前置きしておいて高級品が鰹節だけとは不可解だった。「他に具はないのですか。鶏肉とか、魚介類とか」 #スプロール鎮守府

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「鶏肉? 魚介? おせちのことか? 今朝は雑煮しか用意していないぞ」ナカムラは取り合わない。ナカムラが本気で、この菜っ葉だけの碗を雑煮だと認識しているのだと理解した不知火は、彼の経歴を思い出した。 #スプロール鎮守府

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日本の片田舎で育ち、そこから一念発起して《スプロール》へ。帰国してからチバシティで一人過ごしてきたナカムラには、他人と雑煮について話す機会などなかったのだ。すなわち、彼は地域によって雑煮に違いがあることを知らなかったのだ。 #スプロール鎮守府

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そこから不知火の雑煮講座が始まった。「いいですか、まず汁は醤油の他に各種味噌、ところによっては小豆を入れる場合もあります。餅の切り方も四角や丸、また焼いて入れる場合もあります。具はさらに地域色が豊かで、野菜やかしわが多いようですが、蟹や鮭を入れるところも…」 #スプロール鎮守府

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「ま、待て、わかったからまずは食え」ナカムラが残った削り節を不知火の碗にふりかける。「ほら、せっかくの鰹節がもったいない」「あ、食事中に失礼しました」思わず立ち上がっていた不知火は座り直し、碗に箸をつける。 #スプロール鎮守府

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不知火はこれまで全国から集まった艦娘やヤクザと正月を過ごしてきたので、雑煮に地域性があることは常識として知っていた。しかし、餅の他に菜っ葉と削り節だけという雑煮は初耳であった。「なんだか期待させたみたいで済まなかったな」真実を知ったナカムラはしょげいてる。 #スプロール鎮守府

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「いえ、これはこれで素朴な味わいで…。こういう雑煮を知らなかったとはいえ、取り乱したのは不知火の落ち度です」落ち着きを取り戻した不知火が話題を変える。「ところで正月菜とはなんですか」 #スプロール鎮守府

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「それが俺もよく知らないんだ。小松菜のまだ小さいものに似ているが、もっと柔らかい。どこでも食べてるもんだと思ってたが、通りでどこに行っても怪訝な顔をされたわけだ」望郷の念にかられるナカムラの碗の中で、削り節が湯気に踊っていた。 #スプロール鎮守府

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金と暴力が支配する街、チバシティの文化は意外とかしましい。所得上位層、すなわち消費の動向を決める層に艦娘が多く入っているためだ。そういうわけで乙女のイベントたるバレンタインはチバシティでも重要な行事であるが、艦娘の間ではやや歪な形式が伝えられている。 #スプロール鎮守府

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同年代の異性が少なく実践の機会がないため、旧来のように相手を選ぶことは重視されなくなった。一方チョコ自体が今や貴重品であるため、これを贈ること自体がステータスとされた。すなわちチバシティのバレンタインとは、艦娘が己の財力と人脈を誇示する儀式に他ならない。 #スプロール鎮守府

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艦娘の社会は広く狭い。一方でヤクザクランや研究所と契約を結び、また一方では噂がたちまち広まる艦娘同士のコミュニティに所属する。よりよい条件で活躍するためには、どちらの評判も疎かにはできない。従って、自身の力をアピールすることは単なる見栄では済まない重要問題だ。 #スプロール鎮守府

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2月に入ってから、不知火はこの問題に追われていた。ナカムラが艦娘の風習であるバレンタインを知っているかは不明だが、いずれにせよ被雇用者たる不知火としては、相応の品物を贈る必要がある。ここで甘く見られては、今後の契約にも関わりかねない。 #スプロール鎮守府

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「というわけで司令、こちらをご賞味下さい」不知火が差し出したのはインドネシア産カカオ99%のチョコレート。ミルクや甘味料はおろか、砂糖すら使われていない高級品。ちょうど遠征があった陽炎に頼んで買ってきてもらったものだ。こういった人脈の有無が試されるのだ。 #スプロール鎮守府

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「バレンタインに、チョコレート…ああ、聞いたことがある。昔はそうしていたそうだな」チョコレートは甘いものと決めこんで一口齧り、想定外の味を口の中で持て余しながらナカムラは話し始めた。「俺のところはパンケーキだった」 #スプロール鎮守府

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深海棲艦の出現によって海上貿易が途絶して以来、ナカムラが育ったような普通の町でチョコレートを入手することは事実上不可能となった。しかし、全国の夢見る乙女達をその程度の現実が阻むことなど不可能であったし、大手製菓企業の活動も同様であった。 #スプロール鎮守府

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小麦粉、牛乳、卵、重曹に甘味料。大手製菓企業は入手が容易な材料で作れるパンケーキに舵を切り、食料・燃料不足に対応し変化する生産地、流通を押さえ販売網を整えた。手作りできる環境が文化の継承に必須であり、ひいては既製品の売り上げにも繋がった。 #スプロール鎮守府

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ナカムラも何度か義理パンケーキを貰ったことがある。《スプロール》にはそもそも菓子を贈る習慣がなかったが、郷愁にかられたナカムラは毎年自分でパンケーキを作って食べていた。「というわけで、今年も焼いてある。お前も食うか?」「いただきます。ただ…」不知火が口籠る。 #スプロール鎮守府