@OokuboTact でも醍醐天皇の在位期間が33年間(897年〜930年)なので、推古天皇の36年間(592年〜628年)に近いとは言える。 www1.ttcn.ne.jp/aatok2-h/rekid…
2015-02-13 22:21:49@OokuboTact 『日本書紀』によると推古天皇は75歳で亡くなったことになっている。しかし『日本書紀』では推古天皇より後の天皇で、亡くなった年齢が書いてある天皇はいない。
2015-02-13 22:31:11@OokuboTact 『日本書紀』は「推古天皇から前」と「推古天皇より後」で分かれると思う。『古事記』が推古天皇で終わっていることには、何かメッセージというか理由があるのだろう。
2015-02-13 22:33:13@OokuboTact 虚構説が話題になった聖徳太子が推古紀というのは歴史を考えるには興味深い。私は大山誠一の虚構説はダメだと思うけど。しかし大山説は歴史教科書に大きな影響を与えているので困る。
2015-02-13 22:36:12@OokuboTact 建国記念日は神武天皇が即位したBC660年旧暦の元旦だそうだけど、推古紀9年(AD601年)から1260年前(60×21=1260)だそうだ。601年の前年は『日本書紀』には書かれてないけど、遣隋使が始まった年だ。
2015-02-13 22:41:36@OokuboTact 「革命勘文」という思想があって、中国から来たみたい。 ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%A9… この思想は隋の煬帝(聖徳太子と文通した皇帝)と深い関係があるらしい。
2015-02-13 22:45:02@OokuboTact 虚構説の蓋然性では、聖徳太子よりも推古天皇の方があると思う。大山誠一の聖徳太子虚構説は専門家に完膚無きまでに否定されている。にもかかわらず歴史教科書に影響を与えている。なぜだろう?
2015-02-13 22:49:57@OokuboTact 「実は聖徳太子(厩戸皇子)は天皇だった」と思っている。それなら在位期間はいつ頃という疑問が出てくる。推古9年2月〜推古29年2月の20年間だと思う。斑鳩の宮の建設の開始から聖徳太子の死去まで。在位期間が長い気もするけど、推古天皇の36年間より短い。
2015-02-14 01:44:23@OokuboTact そうすると、崇峻天皇の死去後に推古天皇が即位し、次が聖徳太子(厩戸皇子)が即位したことになる。しかし聖徳太子の死去から舒明天皇即位まで約7年間ある。そう考えると、もう一人天皇がいたことになる。
2015-02-14 01:50:49@OokuboTact この推測(妄想?)・・・崇峻天皇→推古天皇→聖徳太子→?天皇→舒明天皇を思いついた理由は、推古天皇の在位期間が長すぎるから。あと『日本書紀』の年齢のこだわりが奇妙すぎるから。 #日本史
2015-02-14 01:57:14歴史教科書の「聖徳太子」問題が気になる。歴史教科書から「聖徳太子」という表記が消えたわけではないけど、(聖徳太子)みたいな表記になってたりする。そして「厩戸皇子」あるいは「厩戸王」みたいな表記がある。でも、日本史オタクでないと、どうしてそうなった経緯がわからないと思う。 #日本史
2015-03-07 00:58:11@OokuboTact 「聖徳太子」という表記は『古事記』と『日本書紀』にはない。でも「厩戸王」なんて表記もない。「聖徳太子」という表記は古くからある(鎌倉時代から?)。それに対して「厩戸王」は最近の呼び方。 #日本史
2015-03-07 01:03:50@OokuboTact 「厩戸王」は学問上の仮説名なので、「聖徳太子」と並べるのは変だ。「厩戸王」は用明天皇の息子ではないという設定なので、皇族であるかどうかも決まっていないキャラ。大山誠一は、「厩戸王」が実在したという前提で持論を展開しているけど、根拠が弱い。 #日本史
2015-03-07 01:13:28@OokuboTact 大山誠一の聖徳太子論はフィクションとしてはおもしろく、ミステリー小説になると思う。関裕二の聖徳太子論と似ているけど、関裕二のは複雑すぎる。でも大山誠一と関裕二は根拠が弱いのでフィクション止まりだと思う。 #日本史
2015-03-07 01:16:53@OokuboTact でも不思議なのは、「大山誠一の聖徳太子論がどうして歴史教科書に影響を与えたのか?」。 大山説だと聖徳太子は用明天皇の息子ではなく、しかも『日本書紀』に書いてある聖徳太子の話もほとんどが虚構だということになる。ムチャクチャな説だと思う。 #日本史
2015-03-07 01:21:41@OokuboTact 『隋書』に出てくる倭王「アマノ・タリシヒコ」は聖徳太子を指していると思うけど、これは聖徳太子の実在の証拠。推古紀の登場人物では聖徳太子が実在の可能性が一番高いキャラ。一番高いキャラを虚構としてしまうと、その他キャラはもっと虚構だということに。 #日本史
2015-03-07 01:29:45@OokuboTact 蘇我馬子は年齢不詳だけど、かなり長生き。当時の平均年齢からすると有り得ない。推古天皇も長生きで、しかも天皇の在位期間が長過ぎで非常識。敏達天皇の皇后だけど、年齢の計算がいろいろいい加減だったりする。 #日本史
2015-03-07 01:35:39@OokuboTact 蘇我馬子の誕生年は不詳だけど、推古天皇は結婚した年齢や死んだ年齢が詳しく書いてあるので、そこから蘇我馬子も推測できる。でも推測すると凄い長寿になってしまう。 #日本史
2015-03-07 01:38:26@OokuboTact 推古天皇の母の死んだ年も書いてある(年齢は不詳)。でも推古天皇の年齢から推測できる。こちらも凄い長寿になる。 #日本史
2015-03-07 01:39:59@OokuboTact 『日本書紀』で推古天皇の夫・敏達天皇の記録を見ると、最初の皇后と結婚して1年以内に子供を4人産んで亡くなって、次の年に推古天皇と結婚している。 #日本史
2015-03-07 01:45:29@OokuboTact 『日本書紀』の推古天皇の記録を見ると、敏達天皇の記録では年齢が書いてなかったのに、急に詳しく書くようになっている。ちなみに推古天皇より後の天皇も年齢は書いてない場合が多い。 #日本史
2015-03-07 01:48:56@OokuboTact 『日本書紀』の推古天皇の記録は最初から年数がかなりおかしい。前の天皇の記録との整合性が無い。無視しているわけではなく、いい加減。ちなみに兄である用明天皇(聖徳太子の父)の存在は無視。 #日本史
2015-03-07 01:51:15@OokuboTact 推古天皇は18歳で結婚、34歳で夫が死ぬ、39歳で弟の崇峻天皇が暗殺される・・と書いてある。夫の敏達天皇の記録では敏達5年に結婚し、敏達14年に夫は死んでいる。計算が合わない。 #日本史
2015-03-07 01:58:54