『理不尽な進化』とウェーバーの位置:「説明と理解」論争をめぐって
- kuragari20nen
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高等師範学校時代からの好敵手で、学生運動家たちから「アロンとともに正しいよりも、サルトルとともに間違った方がいい」と学生たちにいわれた、あのアロンだ。そういう経緯を知っていれば、サルトルがどの程度までしか考えずに、あるいは知らずに、
2015-03-30 14:15:37こんなことを言ったのか、よくわかると思う。さすがに、この本でこの言葉を読まされたときはため息が出た。で終章の最後の頁で「造反有理」という言葉をもう一度読まされた瞬間は、吉川さんの意図がそこにはないと重々承知しながら、頭が痛くなった……。)
2015-03-30 14:15:57あるいは、「説明と理解」論争について全く言及せず、もちろんハイデガーやガダマーやアーペルやサルトルにもふれずに、生物学での論争の紹介とそれについての個人的な感想で終えただろう。
2015-03-30 14:16:17だが、この本はどちらも選ばなかった。その点で、やはり中途半端だと私は思う。でも、そこで中途半端だからこそ売れたんじゃないかな、とも思う。より丁寧にいえば、中途半端さをむしろ嫌い、慎重に避けながらも、一段上のレベルで意図せずに中途半端をやった。
2015-03-30 14:16:39だからこそ、この本は売れたのではないだろうか。もし「われわれの時代」に「乗り超え不可能な」何かがあるとしたら(厳密にいえば、それに近い何かがあるとしたら)、むしろそこにあるのではないか。
2015-03-30 14:17:04吉川さんも「現場とジャーナリズムの食い違い」(255頁)を語っているので、少し専門的なコメントをつけ加えておくと、ルーマンが『マスメディアのリアリティ』で触れているリアリティというのは、まさにそういう種類のものだと私は考えている。
2015-03-30 14:17:21逆に言えば、そこに触れないままあの本読んでも、ただのへ理屈の塊りだろう。概念の整合性を表面的に追っても、得るものはない、とはいわないが、あまり多くないと思う。 経験的な分析は、まず経験的な分析として徹底的に読むべきだ、というのが私の意見である。
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