『理不尽な進化』とウェーバーの位置:「説明と理解」論争をめぐって
- kuragari20nen
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吉川浩満さんの『理不尽な進化』をぱらぱら読んだのだが……。 私がこの本に関して誠実にいえるのは、「これを読んだ後に、『客観性』論文より後のウェーバーの方法論の論文を読むと、何が問題になっているかがわかりやすくなると思う」ぐらいだなあ。
2015-03-30 03:46:39【参考】理不尽な進化|特設サイト
「説明と理解」論争がディルタイ、ヴィンデルバント、リッカートから「その後、かのマルティン・ハイデガーを経由して、百年にわたるジグザクのリレーの末に……ガダマーの仕事によって、より深化・洗練されたかたちでまとめられた」(310-1頁)
2015-03-30 03:47:00とまとめてあるのには、さすがに目が点になった。えーと、ならウェーバーはどうなるの? 「理解」社会学だから「文化科学」に入れられてるのかな? まあ、社会学者にもそう位置づけてる人はたくさんいるから、少なくとも頭数でいえば、
2015-03-30 03:47:25吉川さんじゃなくて、私の方が変だと認定されかねないが……。 でも、「「理解」はなにをもたらすのか。それは学問的知識のおよばない真理の経験である」(354頁)というのがガダマーの主張で、
2015-03-30 03:47:50これが「説明と理解」論争前半戦が「深化・洗練されたかたちでまとめられた」内容だとすれば、「理解社会学」を立てたウェーバーは、そういう「まとめ」には全く入っていないとはいえると思う。
2015-03-30 03:48:10すでに何度か呟いているように、ウェーバーが方法の考察で使った『法則論的/存在論』の二分法も、「適合的因果」の概念も、「文化科学」を唱えたリッカートではなく、生理学者で統計学者のv・クニースから来ているのだから。
2015-03-30 03:48:29【参考】佐藤俊樹,2014,「『社会学の方法的立場』をめぐる方法論的考察(盛山和夫著、『社会学の方法的立場 客観性とは何か』東京大学出版会)」『理論と方法』29(2).
いうまでもなく、だからといって吉川さんの議論がまちがっているわけではない。「説明と理解」の対立が「「回帰する疑似問題」」であることは、本のなかでもくり返し強調されている(358頁など)。その点でいえば、
2015-03-30 03:48:54私のウェーバーの読解、すなわちa)ウェーバーは「法則科学/文化科学」の対立図式そのものを転換した、b)そのことが少なくとも日本語圏の学説史では忘れ去られてきた、という主張も、むしろ、この疑似問題の回帰性の執拗さを示す一例にあたるのだろう。
2015-03-30 03:49:12しかし同時に、そういうウェーバーが抜け落ちた形で「説明と理解」論争がまとめられていることは、吉川さんのこの本自体も、この執拗な回帰をまさに遂行していることをも意味する。簡単にいえば、この本もまた、この「対立」を「回帰する疑似問題」にし続けている。
2015-03-30 03:49:58それも、「首尾一貫した失敗」(362頁)というより、むしろ「首尾一貫した成功」だったといえるウェーバーもまた忘れ去られたことを、さらに忘れ去り続ける一端を担いながら。
2015-03-30 03:50:43(実際、吉川さんが紹介している、アーペルによる「説明と理解」論争の三期区分は、私には、ヘーゲルの弁証法的すぎていて気持ちわるい。吉川さんはアーペルの著作がこの論争の「もっとも包括的な解説書」(311頁)だと注記しているのだが、
2015-03-30 03:51:23どうやって「包括的」だと判断したのだろう? アーペルの著作が包括的かどうかを判断できるには、アーペルの著作とは独立に、この論争について広範な知識をもっていることが必要条件になる。
2015-03-30 03:51:56ある視野が「包括的」かどうかは、想定すべき可能性の幅を実質的に定義する。それゆえ、歴史記述にとって最もcriticalな部分の一つであり、そう簡単には判断できないと思うのだが。)
2015-03-30 03:52:26だとすれば、この本は本当は一体何をやっていることになるのだろうか? 過去の「人間からの離脱と帰還の往復運動」(410頁)の「足跡」を消しながら、その「往復路線へのチケット」(417頁)になろうとすることによって。
2015-03-30 03:53:04マートン的な機能主義からみればww、それこそが最も問うべきことになるんじゃないかな。もちろん、本当はどこで何が選択されたのか、という潜在性をめぐる問いとして。
2015-03-30 03:54:26以下、追記分
【その2】 というわけで、本の帯に並んだ書評の文言のうち、「文系と理系の間の境界領域をやすやすと遊弋し」は言いすぎだと思う。「間」はむしろ飛ばされているんじゃないかな。
2015-03-30 14:14:10例えば、もし私が著者ならば、ハイデガーやガダマーやアーペルやサルトルでまとめたりせず、人間や社会の歴史についての具体的なリサーチ・プログラムがどのように展開されてきたのかを、論文レベルまで遡って追跡して、自分なりの地図をつくるだろう。
2015-03-30 14:14:32(「まとめ」でいえば、サルトルの「時代の乗り超え不可能な哲学」(413頁)という言葉は、典型的な決まり文句というか、吉川さんの言葉を借りれば「お守り」(107頁など)か、「当該分野の「可能性と限界」を安易にパッケージにした情報」(256頁)用の
2015-03-30 14:15:02宣伝文句だと思う。これを見るたびに、私は、乗り超え不可能かどうかあなたはどうやって判定したの?と言いたくなる。ちなみに、ウェーバーの方法をフランスに導入したのはレイモン・アロンである。
2015-03-30 14:15:18