Lot.n歴史カフェ「鳥島漂流~沖の大夫たち~」
今月もロットンの歴史カフェ、始まるよぉ~。っていうことで、ポツポツつぶやいてきます。 #かるのーと #歴史カフェ #lotn
2015-04-07 18:39:15鳥島ってこんなとこ
江戸時代に漂流して、なんとか帰還した人の数は120人位らしい。どれだけの人が、海に消えたんだろう。。。 #かるのーと #歴史カフェ #lotn
2015-04-07 18:41:06これは難船したのが史料で把握できる、海運に関わる漂流のみの数字らしい。
漁船なんかは含まれていないから、実際にはどれだけの海難事故があったのか、正確に把握するのは難しいんだな。
日本海側で漂流した人の生還率は、高い。中国・朝鮮あたりに流れ着くと、長崎に送り返してもらえたみたい。 太平洋側に流されると、北はカムチャッカ半島、南はボルネオ島や、東は北米大陸まで流されちゃうことも。ひえぇ~! #かるのーと #歴史カフェ #lotn
2015-04-07 18:43:51今回は、太平洋の孤島・鳥島に流された人たちのお話。無人島だから、帰るのは大変。でも、海流の関係で鳥島に流された人は結構いたみたい。80人位いるみたい。 #かるのーと #歴史カフェ #lotn
2015-04-07 18:45:54時は享保四年(1719)秋、新居を大鹿丸が出港。江戸に向かい、無事に御城米を江戸に収める。そしてわしづか(愛知県)→清水港に御城米を収める。そこから材木輸送を請負い、西伊豆の妻良(めら)を経由して、下田へ。 #かるのーと #歴史カフェ #lotn
2015-04-07 18:53:47大鹿丸が遠州新居を出港した時の船員は
船頭(船長) 左太夫
舵取(副船長) 甚八
水主 仁三郎
水主 平三郎
水主 善三郎
水主 八太夫
水主 権五郎
炊 善右衛門
江戸に入った時に水主2名を新たに雇い入れたみたい。
当時の下田は、下田以東へ向かう船の関所があったため、みんな寄らなきゃならなかったみたいね。下田奉行所だね。 #かるのーと #歴史カフェ #lotn
2015-04-07 18:54:40木材を積載した船は喫水が下がっているため、品川から奥には進めず、ここで木材を下ろして、筏にして木場に木材を届けていた。 #かるのーと #歴史カフェ #lotn
2015-04-07 18:56:26江戸を出港した大鹿丸は、荒浜(東北)に向かう。また御城米を積載して、江戸に向かう。しかし、銚子のあたりで風が悪くなり、風待ちをせざるを得なくなる。風が収まらないため、銚子で御城米は陸揚げし、川で江戸に運ぶことになる。よくあるパターン。 #かるのーと #歴史カフェ #lotn
2015-04-07 19:00:06冬の海は荒れやすく、房総半島を回りこんで江戸の湾内に入るのは結構難しかったようで、東北方面からの御城米は銚子で陸揚げされて利根川水系を通って、川経由で運ばれることも多かったのねん。
宮古で、出稼ぎに来ていたという松崎町出身の権次郎を乗船させる。
なんで松崎出身の権次郎が宮古に出稼ぎに行っていたのかは不明。なんか怪しいぜ、権次郎w
@mokaaan 宮古で材木を積み、そこで岩地から来た権次郎と知り合い乗船させる。気仙沼で積んだのは城米でなく船員の食糧としての米です。
2015-04-08 11:21:56当時の難船対策。 とにかく荷を捨てて軽くする それでもダメなら、帆柱を切って、重心を下げる #かるのーと #歴史カフェ #lotn
2015-04-07 19:03:58和船は構造上、バラバラになりやすかった。 また幕府の規制で、帆柱は1本しか付けられなかった。そのため帆柱が高くなっていった。それに比例して、櫓も大きくなっていったため、大波を受けると破損しやすくなってしまった。 #かるのーと #歴史カフェ #lotn
2015-04-07 19:06:12櫓の大きさはだいたい、畳6畳くらい。デケェ!