- Bay_yamashiro
- 34042
- 30
- 1
- 0
そして1982年。キャンプでの快投と卓越したマウンドさばきを見せ、プロ3年目にしてクローザーの大役を近藤監督から任されます。 それまで決して好投手とはいえなかった牛島投手の抜擢に、世間からは疑問を投げかけられます。 しかし、周囲の評価を裏切るように牛島投手は快投を続けます。
2015-04-12 22:14:39牛島投手の快投に合わせるようにチームも快進撃を続け、前半戦を終えて2位。 首位ジャイアンツとは1ゲーム差という優勝圏内。 牛島投手は前半の77試合で半数以上の試合に登板するなど大車輪の活躍でチームを支えていました。
2015-04-12 22:15:02しかし、後半に入ると酷使の影響からか身体のあちこちに故障が現れます。なんとか騙し騙しやっていたものの、8月に入って直ぐに腰を、次に肘を故障し、離脱を余儀なくされます。 しかし、チームは優勝争いまっただ中。 まだ完治していない9月に再び1軍へ招集。痛み止めを呑んで投げ続けました。
2015-04-12 22:15:50その甲斐もあって中日ドラゴンズは見事1982年にリーグ優勝。 牛島投手は53試合で7勝4敗17セーブ防御率1.40という成績を残し、尊敬する星野投手から 『牛島がいなかったら優勝はなかった』と言わしめる大活躍でした。
2015-04-12 22:16:27その翌年こそ、前年の酷使がたたって成績を落としますが1984年には27Sをあげセーブ王を獲得。 名実ともにドラゴンズの、球界を代表するクローザーとして成長していきます。
2015-04-12 22:17:15マウンドではどんなピンチでも冷静に振る舞い、『魔球』とまで言われたフォークボールと巧みなフィールディングで凌いできた姿に賞賛を送られ続けてきた牛島投手でしたが、実際には彼ほどのメンタリティを持ちあわせてもマウンドに登る前は足が震えるほどプレッシャーが襲ってきたそうです。
2015-04-12 22:18:00実績を積み重ねるごとに襲ってくる『プレッシャー』 そんな極限の緊張状態でもマウンドに登れば頭が冴え、『どう打ち取るか』ということに集中することができたのはやはり大投手の証なのでしょう。
2015-04-12 22:18:271986年を終えると通算セーブ数は『77』 目標だった100Sにあともう少しと近づき、俄然気合が入りました。 また翌年からは憧れであり、理解者でもあった星野仙一さんが監督に就任することが決まっており、『ドラゴンズ牛島』の野球人生の最盛期となる はずでした。 。。。 。。 。
2015-04-12 22:19:361986年オフ 読売ジャイアンツフロントに激震が走ります。 それはパ・リーグの最強打者をトレードで放出したいという交渉でした。 しかし、交換相手として指名されていたのは原辰徳選手、中畑清選手、もしくは複数の期待の若手という破格なものでした。
2015-04-12 22:20:31当然、チームの顔としてジャイアンツを支えていた原選手や中畑選手を放出するわけにはいきません。 しかし、この放出したいという選手はこの2選手を放出してもなお価値のある選手。 悩みに悩みましたが結局、ジャイアンツはこのトレードを断り、その話はドラゴンズへと流れて行きました。
2015-04-12 22:21:141986年オフ 星野新監督は早速翌年の構想を練っていました。1982年以来低迷を続けていたドラゴンズを変えるには大規模な補強が必要でした。 特に課題だったのは長距離砲の不在。 そんな中、ロッテオリオンズからとある大打者のトレードの打診がやってきます。 その打者とは
2015-04-12 22:22:14落合博満 この時既に2年連続三冠王、3度の三冠王を手にしていたこの最強打者を星野新監督は見逃すはずがありません。 しかし、トレード相手として指名されたのは破格の4選手。まさかの1対4でのトレードの打診でした。 pic.twitter.com/U4j1FGyGxW
2015-04-12 22:23:01その交換相手として指名されていたのは 内野のレギュラーだった上川誠二選手 ともに期待の若手投手であった平沼定晴投手、桑田茂投手
2015-04-12 22:23:43そして ドラゴンズの絶対的クローザー、牛島和彦投手でした。 (続く) pic.twitter.com/W4fM60c9GN
2015-04-12 22:24:08来週は現役晩年~解説時代~そしてフォロワーの方には嬉しい?ベイスターズ監督時代のお話になるかと思います。 よろしくお願いいたしますm(__)m
2015-04-12 22:27:13