【開棺】中尊寺金色堂学術調査65周年語り【調査】~第五夜~ 奥州藤原四代の死因

 1950年(昭和25年)3月22日~31日、中尊寺にて金色堂の棺を開き、奥州藤原氏四代のミイラ化した遺体に対する学術調査が行われた。  その65周年にちなんで奥州藤原氏botでも六夜に渡ってこの学術調査の話題を語り倒す。その記録のまとめです。
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奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

季春「『即ち清衡は脳溢血或いはそれに類する疾患が死因と考えられる。若し外傷でかような病変が来ると両側に来る筈であり、このような骨萎縮が来る前に死亡すると思われる』(同71p)」

2015-03-26 23:19:17
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

季春「さらに 『かくの如き高度の片側萎縮脆化は、その近因たる半身の運動不随と栄養障碍が、大治三年(一一二八)三月十三日清衡死時を遡ること数年を超えるころに発した脳卒中に続く極めて陳久性のものである』(『最終報告』11p) ともあります」

2015-03-26 23:21:50
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

経清「つまり清衡は亡くなる数年前に脳溢血で半身不随となったが、そのまま病状を進行させながら数年間生きた後に死んだ、と」 季春「……清衡様の御身体は急死された基衡様や秀衡様とは比べるべくもないほど痩せておられました……病で衰弱され、その果てのことだということです」

2015-03-26 23:25:48

【補足②】清衡の骨の委縮について

・小窩性骨萎縮→軽石のようになってもろくなる
・廃用性骨萎縮→使用しないため骨成分が減少してもろくなること

 清衡の左側上腕骨は右側より目方が17%軽く、他の左側上肢の骨にも萎縮が見られた。一方、下肢は上肢ほど左右の差が見られず、下肢の麻痺はあまりなかったのではないかと調査で見立てられた。

 ミイラの重量を見ると、首だけの泰衡は別として基衡・秀衡と比べても清衡遺体が著しく軽いことがわかる。

・清衡遺体:4.6㎏
・基衡遺体:8.9㎏
・秀衡遺体:6.2㎏
・泰衡首:1.0㎏
(『最終報告』付「藤原四代遺体保存措置日記」より)

奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

季春「……経清様、何故これを明らかにさせたのですか? 『吾妻鏡』は中尊寺の僧達の証言として「一病も無く眠るように安らかに目を閉じた」と伝えています。それで良かったではありませんか?」 経清「寺の者達の清衡が苦痛も無く安らかに死んだと伝えたい気持ちはわかる。でもね」

2015-03-26 23:28:54
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

経清「清衡が晩年の数年、そういう重い病が進行していく中で何をやったか。金色堂及び中尊寺の大伽藍を完成させ、さらに死の一年前には奥州の利益のために国司と争っている。しかも都は清衡の病気をまるで気づいていなかったようだ」

2015-03-26 23:32:42
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

経清「清衡は、これほどの病でありながら、奥州を安定させ発展させるために必要なことをやり遂げ、病状を都に悟られることもなく、奥州を守るため最期まで闘ったのだと思う。きれいに死んだことにする気持ちもわかるが、私はその執念、闘いこそ明らかにしたいよ」 季春「……」

2015-03-26 23:36:34

【補足③】『吾妻鏡』が伝える清衡の晩年

 『吾妻鏡』文治五年九月十七日に載せられた「平泉寺塔已下注文」は、清衡の晩年を以下のように記す。

「(清衡は)一病も無くして合掌し仏号を唱えて、眠るが如く閉眼しおわんぬ」

 「平泉寺塔已下注文」は奥州藤原氏を滅ぼし平泉を占領する源頼朝が、中尊寺などの僧侶に書かせたもので、平泉の寺院群の概要および藤原三代の事績について記されている。『吾妻鏡』の編者はこの「注文」をそのまま転載したという。

 上記の文章は仏教者の間で非常に徳の高い人物を称える常套句であり、中尊寺の僧侶達は事実上の開基である清衡を称える気持ちから実際の晩年とは異なることを書いた可能性が高い。
(あるいは「清衡の徳の高さ」=「彼が築いた平泉の聖地性」を強調することで、平泉と平泉仏教に対する狼藉や粗略な扱いを回避し、アイデンティティを守ろうとする敗者の抵抗の駆け引きの一環であったのかもしれない)

※「注文」自体は平泉研究の根本史料として信頼されている。これから平泉を支配する鎌倉方に提出する文書に寺院の規模や町の様子など“確かめれば分かること”について虚偽が書けるわけがないからとされる。しかし、“確かめようのないこと”に関しては、何らかの意図を盛り込む余地はあったと思われる。

【補足④】清衡晩年の活動について

・1124年:中尊寺に金色堂を建立
・1126年:中尊寺に鎮護国家大伽藍を建立。中尊寺供養願文を起草
・1127年:「清衡、保を立て、七百町を籠む」(『中右記』)
・1128年:死去

 鎮護国家大伽藍の建立および供養願文の起草は、奥州の度重なる戦乱で亡くなった者達を供養するためではあったが、同時に中尊寺の威をもって、内に向けては人心統合、外(都)に対してはすでに事実上確立していた平泉による奥州および北方世界の経営を追認させる政治的パフォーマンスの側面もあった。
 また清衡は奥州の経済的基盤を確立するため、寺神に寄進する名目で保(荘園の一種)を立て公地を囲い込んでいたが、1127年にこの件で陸奥守と小規模な武力衝突を起こし、陸奥守の狼藉を朝廷に訴えている。

 調査者の見立てによれば、清衡は死の数年前、少なくとも金色堂建立前から半身不随となり日に日に病状を悪化させていたという。そうであれば、これらの重要な事業はそのような状態の中で行っていたことになる。しかも清衡の立保事件を巡る都側の記録を見る限り、彼の病状が都側に知られていた形跡もない。

死亡年齢と死因のまとめ

奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

経清「ではまとめてみよう。 清衡:文献上で大治三年に享年73歳で死亡。遺体は70歳以上。死の数年前に脳溢血で半身不随となり、長く病臥した後に死亡。 基衡:文献上で没年不明、享年50代半ば~60代前半。遺体は70歳手前。傷口からの感染症もしくは高血圧を原因とする疾患で急死」

2015-03-26 23:41:10
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

経清「秀衡:文献上で文治三年に享年66歳で死亡。遺体は50~60歳。骨の癌の可能性はあるが、脳圧上昇の痕跡から脳溢血での急死が有力」

2015-03-26 23:43:44
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

経清「泰衡:北条版『吾妻鏡』で享年35歳、吉川版では25歳で文治五年に死亡。歯の状態などから20~30歳と推定。傷跡の様子から見ると、抵抗の末に第四頚椎の処で首と胴を切断されたと思われ、斬首が直接の死因となる」

2015-03-26 23:46:18
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

経清「う~ん、今夜も何となく湿っぽくなってしまったね」 季春「何となく、というよりかなりのものだと思います」 経清「最後の夜は明るくやりたいなぁ」 季春「どう転んでも四公の御遺体の話って根本的に明るくはならない話題の気もしますが……」

2015-03-26 23:52:37
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

経清「いや大丈夫だよ! 次回は一部の人達がきっと知りたいであろう四人の容姿とか体格とか相性占いに使える血液型の話するから」 季春「知りたいんですかねぇ?」 経清「当たり前だよ! そういうでーたがあった方が薄い本作る時に参考n」 季春「経清様ぁ! 自重なさってくださいいいい!!」

2015-03-26 23:57:58
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

経清「せっかく最後だから当事者の四人も呼ぼうかな」 季春「はあ……清衡様の御父上に呼ばれて断れるわけもなく、御自身のミイラの話に付き合わされる四公の心情を思うと今から胸が痛いです……」

2015-03-27 00:02:51